「暴力革命の方針に変更なし」
政府は11月19日の閣議で、「現在においても、日本共産党のいわゆる『敵の出方論』に立った暴力革命の方針に変更はないものと認識している」との答弁書を決定した。
これは「NHKと裁判してる党弁護士法72条違反で」の浜田聡参院議員の質問主意書に対するもの。答弁書ではさらに、
日本共産党は、日本国内において破壊活動防止法(昭和二十七年法律第二百四十号)第四条第一項に規定する暴力主義的破壊活動を行った疑いがあり、現在でもこの認識に変わりはない。
日本共産党は、破壊活動防止法に基づく公安調査庁の調査対象団体であり、警察としても、公共の安全と秩序を維持する責務を果たす観点から、同党の動向について重大な関心を払っている。(参議院「日本共産党についての政府見解に関する質問主意書」への答弁書)
と明記した。
9月14日に加藤官房長官(当時)が記者会見で「政府としては日本共産党のいわゆる『敵の出方論』に立った暴力革命の方針に変更はないものと認識している」と発言した際、日本共産党は、
日本共産党は、「暴力革命」なるものを党の正規の方針にしたことはただの一度もありません。事実をゆがめた妄言は絶対に許されません。(『んぶん赤旗』9月16日)
などと猛反発した。
ちなみに、「日本共産党は暴力革命の方針を捨てていない」という政府の認識は、民主党政権下でも一貫していた。
コミンテルンの日本支部
日本共産党は1922年に「共産主義インタナショナル(コミンテルン)」の日本支部として誕生した。来年で100周年となる。
当時誕生したばかりのソ連は、一国だけの革命政権が、いずれは他の資本主義諸国から包囲されてしまうことを恐れ、諸外国にも同様の革命組織が必要だと考えたのである。このため、各国支部の共産主義者たちは、コミンテルンによるモスクワからの指令と資金提供を受けて、ソ連のための工作やスパイ活動はもちろん、自国の政治体制を内部から混乱させて、いずれは自国でも革命を起こそうと考えていたのだ。(産経新聞政治部『絶対に誤りを認めない日本共産党研究』)
私有財産制度を否定し天皇制の廃止を掲げる日本共産党は、戦前、非合法とされた。
ソ連ではレーニンが1924年に死去。独裁体制を敷いたスターリンは、1936年から1938年の3年間だけで約200万人を「反革命罪」で逮捕。そのうち半数近くを処刑する「大粛清」をおこなった。
この事実について日本共産党は何と言っているか。
当時、日本共産党中央は、天皇制政府の弾圧で獄中にあり、コミンテルンの変質の進行を知ることはできませんでした。(『しんぶん赤旗』2006年9月7日)
スターリンが100万人ともいわれる自国民らを処刑したことを「知らなかった」と弁解しているのだ。
1945年10月、GHQ(連合国総司令部)の指令によって共産党員を含む政治犯が釈放される。解放された徳田球一、志賀義雄らは、『人民に訴ふ』という声明を発表。
連合国軍隊の日本進駐によって、日本における民主主義革命の端緒がひらかれたことに対し、われわれは深甚なる感謝の意を表する。
と述べた。日本共産党が打倒しようとしていた日本政府が、皮肉にも米英など連合国によって倒されたからだ。
1946年の第5回党大会では、
わが国のブルジョア民主主義革命を、平和的にかつ民主主義的方法によって完成することを当面の基本目標とする。
と宣言。同年の衆議院選挙で5議席を獲得した。
共産党「武装闘争」の経緯
ところが東西冷戦が進んだ1950年1月6日、国際共産主義運動の拠点であるコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)の機関紙が「日本の情勢について」と題する論文を掲載。日本共産党が掲げていた〝平和革命〟路線を非現実的と糾弾した。
この論文が日本共産党を分裂させる。
『「日本の情勢について」に関する所感』という論文を1月12日に発表して、コミンフォルムの批判に異を唱えたのが、徳田球一、野坂参三ら〝所感派〟。
一方、コミンフォルムの「暴力革命」の指示に従うべきと主張したのが宮本顕治、志賀義雄らの〝国際派〟だった。
しかし、1月17日に中国共産党からも批判されると、徳田らは「所感」を取り消して、平和革命路線の放棄を宣言した。
5月30日には皇居前広場で日本共産党を支持する群衆が占領軍と衝突。
6月6日、総司令官マッカーサーは共産党指導部の24人を公職追放。機関紙『アカハタ』を発行停止にするなど、いわゆるレッドパージに踏み切った。
徳田や野坂は中国に亡命し、北京に設置した日本共産党指導部から「武装闘争」を指示。1951年2月の第4回全国協議会では米軍基地や輸送機関、警察などへの工作を含んだ軍事方針が提起された。
9月8日、サンフランシスコ平和条約が締結。同じ日に、日本の主権回復後も安全保障のために米軍を引き続き駐留させる旧「日米安保条約」が署名された。
こうした情勢下で迎えた10月の日本共産党第5回全国協議会では、
日本の解放と民主的変革を平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがい
とする「51年綱領」と、
武装の準備と行動を開始しなければならない
との「軍事方針」が決定された。
12月には、東京・練馬区で警官を殺害して拳銃を奪う「練馬事件」。翌52年1月には札幌市で警官が射殺される「白鳥事件」が発生。5月には皇居前広場で数万人が暴徒化した「血のメーデー事件」。
6月には火炎瓶で米軍や警察車両を襲撃した大阪の「吹田事件」。7月には火炎瓶や投石で警察と衝突する名古屋の「大須事件」が起きる。いずれも裁判で日本共産党の関与が認定されている。
日本共産党の武装闘争による一連の凶悪なテロ行為を踏まえ、52年7月に破壊活動防止法が施行され、公安調査庁が設置された。作家で元外務省主任分析官の佐藤優氏は、
政府はこの法律の規制対象に該当するかどうかの調査と処分請求を行うための機関として公安調査庁という定員1660人の独自の役所まで作って共産党の動きを注意深く監視している。共産党が暴発する可能性があると政府が認識しているからです。(佐藤優・池上彰『真説 日本左翼史』講談社現代新書)
と述べている。
相次ぐテロ事件に世論は猛反発。1952年10月の衆院選、53年4月の参院選で、日本共産党は候補者が全員落選している。
さらに同年に徳田球一が死去すると〝所感派〟は失速し、1955年の第6回全国協議会で〝国際派〟の宮本顕治らが党の実権を掌握して再統一した。
現在の日本共産党指導部は、この流れにある。
日本共産党は、1955年の第6回全国協議会で、武装闘争路線を「誤りのうちもっとも大きなものは極左冒険主義である」と自己批判し、58年の第7回党大会で、
暴力革命唯一論の立場に立った「51年綱領」を「一つの重要な歴史的な役割を果たした」と評価した上で廃止しました。(「警備警察50年」警察庁『焦点』第269号)
暴力革命路線を全否定せず評価を与えているのだ。
共産党の主張は「完全な作り話」
たとえば現在も党の実質的な最高指導者である不破哲三氏は、1968年に著わした論文で日本社会党の平和革命路線を批判し、
「平和革命」の道を唯一のものとして絶対化する「平和革命必然論」は、
(中略)
日和見主義的「楽観主義」の議論であり、解放闘争の方法を誤らせる(『現代政治と科学的社会主義』新日本出版社)
と述べている。日本共産党はこれら複数の重要論文をいまだ公式に否定していない。だからこそ公安調査庁も警察庁も「暴力革命の方針に変更なし」と警戒を続けるのだ。
1950年代の暴力革命路線について日本共産党の志位和夫委員長は、
党が分裂した時期に、分裂した一方の側に誤った方針・行動がありましたが、これは党が統一を回復したさいに明確に批判され、きっぱりと否定された問題であります。日本共産党は、「暴力主義的破壊活動」の方針なるものを、党の正規の方針として持ったり、実行したりしたことは、ただの一度もありません。(『しんぶん赤旗』9月15日)
と、自分たちとは関係のない〝所感派〟のやったことだと繰り返す。
佐藤優氏は、この「一方の側がやったこと」という弁明について、
これは分裂に至るまでの経緯を見れば完全な作り話であることがわかります、武力闘争を命じたコミンフォルムの指導に抵抗したならばともかく、むしろ、コミンフォルムや中国共産党の批判を所感派より先に受け入れていたからこその「国際派」なのですから。(前掲『真説 日本左翼史』)
明快に斬り捨てている。
この日本共産党と「閣外協力」で合意して共闘し、政権交代を訴えて第49回衆院選に臨んだ立憲民主党は、有権者の支持を得られず執行部が退陣する結果となった。
今月末には立憲民主党の新代表が決まる。
共産党との共闘に強く反対してきた連合の芳野友子会長は、立憲民主党の新代表が日本共産党との共闘路線を継続した場合について問われ、
あり得ないことはあり得ない(『産経新聞』11月18日)
と重ねて強い反対を表明した。
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