わたしたちはここにいる:LGBTのコモン・センス 第2回 好きな女性と暮らすこと:ウーマン・リブ、ウーマン・ラブ

山形大学准教授
池田弘乃

「女らしさ」や「美醜」といった現在の価値基準によってけずられていった私自身の自尊をとりもどし、自分を信頼する能力を身につけること、他人(最初はまず、私と対していた女性一人から始めなければならなかったが)を信頼する能力を身につけること、そうすることで、私にも他人との関係をつくることができるのだという自信をとりもどすこと、自律と自立の感情の基礎をつくること。(掛札悠子『「レズビアン」である、ということ』、河出書房新社、1992年、133頁)

 今回は、ある先輩の女性たちの声から、性に関する「新しい常識」を作っていくためのヒントを受け取ってみたい。先輩といっても学校や職場の先輩ではなく、人生の先輩である。福美さんとなおみさんは、東京近郊の街に暮らしている。女性同士の2人暮らしを始めて10年ほどが過ぎた。なおみさんは1958年生まれの63歳、福美さんは1960年生まれの61歳。掛け合い漫才のように軽妙なやり取りをしている時もあれば、ゆっくりと一つ一つ言葉を紡ぎながら話す時もあるこの2人の市井の賢人の言葉から、また一つ性の常識をアップデートするための知恵をお借りしよう。
 なおみさんは神奈川県で生まれ育った。自分の性について意識しだしたのは中学生の頃だった。ボーイッシュないで立ちで、周りの女の子たちからお姉さんとして慕われていたなおみさんは、彼女たちと交換日記をしたり、クラブでバスケットボールに打ち込んでいたりした。それでも、その時感じていた気持ちはほのかな好意というようなものだったし、相手が男性か女性かということで区切るということではなかった。
 高校生になると、「自分は女性が好きなんだ」ということを真剣に意識するようになった。同級生とは、はじめてとなるお付き合いも経験した。周りの友人たちは、そんななおみさんに対し、「なおみなら女性が好きでも仕方ないよね」という感じで接してくれていたそうである。なおみさん自身は、ボーイッシュにしていたい時期もあれば、フェミニンな感じに髪の毛を伸ばして化粧をしていたい時期もあり、その時どきの気持ちに素直に従って自己表現をしていたという。
 福美さんは宮城県の小さな町で生まれ育ち、高校卒業後、仕事で東京に移り住む。小学校高学年の頃、同級生の女の子たちが自分に憧れて近づいてくることがよくあった。憧れられると気分がよかったのを覚えている。でも自分自身はその頃「男の子が好きだった」かもしれないという。中学生になっても、女の子から好意を伝えられることがしばしばあった。「好きだと言われるとこちらも好きになっていく」感じはどこか心地よかった。しかし、同時に男が好きなはずの自分がそういう気持ちになることは「変なことだ」「おかしいことだ」という思いもどこかで感じ悩んでいた。1960年代から1970年代、まだまだ性的マイノリティに関する情報を手に入れるのは簡単なことではなかっただろう。ましてや福美さんが生まれ育った町で目にする機会はなかった。
「自分は女の人が好きだ」と思ったのは、東京に出てきてからのことだという。それでも、今から振り返ってみると「女の人も好きだし、男の人も好きかもしれない」というのが正直な自分の気持ちだった。その気持ちに得体の知れない恐怖心を感じていた。女の人が好きだが、男の人を好きになる部分もある自分――そんな思いを抱く20代半ば過ぎに「バイセクシュアル」という言葉を知った。その言葉を知ることで、福美さんは「自分はそうなんだ」と自らがマイノリティであることを受け入れるきっかけができた。

バイセクシュアルという言葉

 言葉は自分が何者なのかを確かめていく時かけがえのない手がかりになることがある。もちろん、それぞれの言葉が帯びているイメージは時に足かせになることもあるかもしれない。性的マイノリティを表現する言葉も、特定の「いかにもそれっぽい」イメージと結び付いてしまっていることがある。特に、「レズ」「ホモ」「オカマ」といった言葉には、ひょっとしたら特有のイメージが貼りついてはいないだろうか(これらはいずれも、他者を名指す言葉としては強い侮蔑のニュアンスをもつことが多い言葉である)。世の中が、特にメディアが勝手にステレオタイプをつくりあげていることもある。
 バイセクシュアルという言葉も、ひょっとしたら何らかのイメージを呼び起こす言葉だろうか。しかし、福美さんは、その言葉と「自身の生き方を模索していくための手がかり」という形で出会ったのだろう。
 バイセクシュアルという言葉について、前回では「恋愛・性愛の対象が同性であることも異性であることもある人」と表現しておいた。
 しかし、近年は「2つ以上の性に惹かれるあり方、または性に関係なく惹かれるあり方」と説明されることもある。女性と男性の「両方」、同性と異性の「両方」に惹かれるというより、「1つの性別だけに惹かれるのではない」「複数の性に惹かれるのだ」という捉え方が、当事者たちの実感により即しているからである。
「相手の性に関係なく惹かれる」や「あらゆる(全ての)性に惹かれる」ということを強調するためにパンセクシュアル(pansexual)という言葉も用いられることがある。パンパシフィックやパンアメリカンという時の「パン」で、「全ての」という意味である。「全て」は「複数」を含むが、「複数」が「全て」を含むかどうかはわからない。
 重要なのは性に関する他の事柄と同様ここでも、本人がどのように自己を理解し、語るかである。自身のあり方についてバイセクシュアルという言葉がしっくりくる人もいれば、パンセクシュアルという言葉がしっくりくる人もいる。そこでは、どのような他者(その人の知り合いのこともあれば、カミングアウトした有名人のこともあるだろう)がどういうふうに名乗っているかも参照されることだろう。
 もし、「バイセクシュアルとパンセクシュアルをどう区別してよいかわからない」と思った方がいらっしゃったら、なぜ区別しようとしているのかをふり返ってみるとよい。区別自体が自己目的化していたら要注意だ。そうではなくて、自分や他者についてよりよく理解するためだったら、これらの言葉を使っている人の現実の声・思いに触れていくことが大事だ。
 例えば、バイセクシュアルという言葉が自分にぴったりだと思う人もいれば、「自分をそう表現すると、どっちつかずのいいとこどりだと勘違いする人もいるからためらう」という人もいる。

この記事はここからは非公開です。続きは、書籍『LGBTのコモン・センス――自分らしく生きられる世界へ』をご覧ください。

 

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シリーズ:「わたしたちはここにいる:LGBTのコモン・センス」(一部公開)
第1回 相方と仲間:パートナーとコミュニティ
第2回 好きな女性と暮らすこと:ウーマン・リブ、ウーマン・ラブ
第3回 フツーを作る、フツーを超える:トランスジェンダーの生活と意見(前編)
第4回 フツーを作る、フツーを超える:トランスジェンダーの生活と意見(後編)
第5回 社会の障壁を超える旅:ゆっくり急ぐ
第6回(最終回) 【特別対談】すべての人が自分らしく生きられる社会に

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いけだ・ひろの●1997年東京生まれ、山形大学人文社会科学部准教授。専攻は、法哲学、ジェンダー・セクシュアリティと法。編著に、綾部六郎・池田弘乃編『クィアと法:性規範の解放/開放のために』(日本評論社、2019年)、 谷口洋幸・綾部六郎・池田弘乃編『セクシュアリティと法: 身体・社会・言説との交錯』(法律文化社、2017年)。論考に、「「正義などない? それでも権利のため闘い続けるんだ」――性的マイノリティとホーム」(志田陽子他編『映画で学ぶ憲法Ⅱ』、法律文化社、2021年)、「一人前の市民とは誰か?:クィアに考えるために」(『法学セミナー』62巻10号64-67頁、2017年)などがある。