独特の文体で、奇妙でリアルな世界を描き出す
多和田葉子著/第108回芥川賞受賞作(1992年下半期)
引き込まれる独特の文体
第108回芥川賞を受賞した多和田葉子は、「村上春樹よりもノーベル賞に近い」とも言われる作家だ。実際、2016年にはドイツの文学賞「クライスト賞」を受賞し、2018年には米国で最も権威のある文学賞のひとつとされる「全米図書賞」を受賞している。国内でも、2000年に「泉鏡花文学賞」、2003年に「伊藤整文学賞」と「谷崎潤一郎賞」、2011年に「野間文芸賞」、2013年に「読売文学賞」を受賞し、2020年には「紫綬褒章」を受章している。
そんな彼女が32歳の時に芥川賞を受賞した作品が「犬婿入り」だ。『群像』(1992年12月号)に掲載された77枚の短編である。
読み始めて最初に驚いたのが文体だった。まずワンセンテンスが長い。読点「、」でつなぎながら、長いときは1ページを超えて言葉が続き、やっと最後に句点「。」がくる。ふつうこれだけ長いと、内容が頭に入りづらいのだが、不思議なことにこの作品はまったくそんなことがない。それどころか、軽妙で小気味よく、クスっと笑わせるところもありつつ、頭の中にスイスイ入ってくる。読者は、自由闊達な言葉遊びのような流れにやすやすと乗せられて、物語の先へと連れていかれるのだ。
雑誌記事の執筆の多い私にとっては、これはありえないことだ。ワンセンテンスをこんなに長く書いたら、編集者から叱責されるのは目に見えている。いわゆるライターにとって大切なことは、伝えるべきことをいかに分かりやすく的確に表現するかだ。分かりづらい内容は十分に書き込みながら、余分な言葉は削り落とし、最大公約数的に分かりやすい文章を書かなければならない。必然的に癖が取れ、丸くなりがちだ。
そういうライターの常識からこの作品を読むと、つくづく小説の文章は自由なんだなあ、と思ってしまう。自由だからこそ、あらゆる世界を表現する可能性を秘めているという当たり前のことを、あらためて実感させられた。
奇妙な物語に引き込む力
読み始めて驚いたもうひとつのことは、突拍子もない奇妙な物語の内容だ。多摩川べりの町にある学習塾「キタムラ塾」で、先生をしている北村みつこの家に、ある日突然怪しい男が訪ねてくる。そしていきなり、みつこのお尻を犬のようになめ始める。みつこは彼を拒むことなく受け入れて、二人で暮らし始めるのだが、その後も奇妙な出来事が次々と起きていく。
読み進めていくうちに徐々にこれが、「犬婿入り」というタイトルどおり、いわゆる「異類婚姻譚」(人間以外の存在と 人間とが結婚する説話の総称)をベースにしているのだということが分かるのだが、ありえない展開に抵抗なく引きこまれたのは、この独特の文体にあるように思う。奇妙だけれどもリアリティのある表現が間断なく続くことによって、読み手は余計な詮索を差し込む余地がなくなり、どっぷりとその言葉に飲み込まれてしまうのだ。
選考委員の田久保英夫は、「芥川賞選評」(『文藝春秋』1993年3月号)で、「言葉の小さな槌で、読み手の通念を一つ一つ壊していくような小説である。それはときには快く、ときには不快にも思える」と述べ、日野啓三は、「『犬婿入り』は文体によって作品を自己増殖させる、という文学的小説の基本が自然に身についている。文学の匂いがある」と言う。
文体を自在に実験する才能
異類婚姻譚における婚姻の相手としては、神、妖精など信仰対象となる存在のほか、蛇、犬、キツネなど動物が相手となる話も多い。日本における有名な異類婚姻譚としては、「南総里見八犬伝」、「鶴の恩返し」、「浦島太郎」などが知られている。
大江健三郎はこう述べる。
『犬婿入り』が、猿婿や蛇婿でなじみのある異類婚姻譚のかたちを展開して、小説づくりの基盤としたことには、ふたつの成果があったと思う。ひとつは文体に、もうひとつは社会、家庭での人物の新しい位置づけに。それはさきの候補作『ペルソナ』にくらべるとあきらかになる。
ただ、作品の最後は、尻切れトンボの印象がぬぐえない。
丸山才一はこう述べる。
『犬婿入り』は、文体と趣向はおもしろいなと思ったものの、そのおもしろさがつづいたのは前半だけだった。そのさきへ進むと、登場人物たちも急に魅力を失い、意味ありげな筋もなげやりな話の運びに変る。
それでもこれを芥川賞に選出したのは、前回候補作「ペルソナ」とはまったく異なる文体を、まるで実験するかのようにやってのけた才は認めざるを得なかったからだろう。その後の彼女の活躍を見れば、その判断は正解だった。
「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』 第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』