書評『ニュースの未来』――石戸諭の抱く「希望」とは

ライター
本房 歩

 石戸諭の新著『ニュースの未来』を読み終えて、鷲田清一の式辞集を思い出した。
 哲学者の鷲田清一は、2007年から11年まで大阪大学総長を、15年から19年までは京都市立芸術大学の理事長・学長をつとめている。
 その彼の学長としてのキャリアの最後となる式辞。すなわち2019年3月におこなわれた京都市立芸術大学卒業式で、鷲田は宮沢賢治の言葉について語った。
 まず有名な《世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない》に触れ、《職業芸術家は一度亡びねばならぬ》と《産者(創る人)は不断に内的批評を有(も)たねばならぬ》のふたつの言葉を挙げた。

 これらを踏まえたうえで、賢治は《世界に対する大いなる希願》をまず持てと、呼びかけます。「希願」とは「ねがい」であり「いのり」です。この呼びかけが意味しているのは、辛い労働の日々にあって、人びとが(賢治の言葉でいう)《もっと明るく生き生きと生活をする道》を探求するのが、ほかならぬ芸術なのだということでしょう。(『岐路の前にいる君たちに ~鷲田清一式辞集』朝日出版社)

 ここに語られた「芸術」は、「ニュース」という言葉に置き換えられても成立するのではないか――。『ニュースの未来』を閉じて、そう感じたのだ。
 本書の前半は、石戸が東京大学大学院情報学環教育部でおこなった講義をベースに、インターネット時代における「良いニュース」とは何かという定義を示していく。
 それは、

①事実に基づき
②社会的なイシュー(論点・争点)について
③読んだ人に新しい気づきを与え
④かつ読まれるもの

である。
 後半は石戸自身のキャリアを失敗や挫折も交えて赤裸々に綴りながら、ニュースの発信者に求められるものについて考察を深めていく。

 石戸は1984年生まれ。2006年に毎日新聞社に入社。2016年にバズフィードジャパン(BuzzFeed Japan)の立ち上げメンバーとして移籍。18年に独立して、フリーランスのノンフィクションライターとなった。
 入社10年で全国紙を退社したのも、その次のインターネットメディアを早々に辞してフリーランスという選択をしたのも、石戸自身がその都度、いかんともしがたい「メディアの構造の限界」を感じたからだった。
 新聞というオールドメディアにも、最新のデジタルメディアにも、石戸の考える「良いニュース」を生み出しづらい構造が横たわっていた。
 ニュースには「速報」「分析」「物語」の3要素があると石戸は言う。
 とりわけマスメディアが競合していくなかでは速報性が重視される。他社より一歩早く特ダネを報じることができれば、読者や視聴者を独占できるし、さらに取材を核心部に近づけられる。
 新聞の場合、この速報性を支えるために、文体や記事のつくりはパターン化されている。いつどこで何が起きようと、どの記者でもパターンに情報を入れ込めば即座に記事になる。
 そこでは記者の文章力はとくに必要とされない。しかも紙幅の制約が大きく、取材したことの大半は記事に反映されない。そして速報は報じた瞬間から古びていく。
 バズフィードに移籍した石戸は、インターネットメディアに一縷の希望を見ていた。
 誰かを叩き、悪人に仕立てるだけでは解決しない問題が世のなかには山積している。誰かひとりでは解決できない。社会で解決策を見つけなければならない。
 石戸は1960年代の米国で生まれた「ニュー・ジャーナリズム」の手法に、現代からふたたび接近しようと試みていた。
 ところが、無料でニュースを配信し広告収入で稼ぐインターネットメディアは、PV数をどれだけとれるかという勝負に収れんされることを宿命づけられていた。記事のクオリティよりも、求められるのは「速さ」と「数」。
 しかも、ジャーナリズムとしての人材育成の面では、オールドメディアである新聞にさえ大きく後れを取っている。皮肉にも新聞社を辞したことで、石戸は自分を育ててくれた新聞というメディアの力を再確認した。
 目の前にあるのが新しくもなんともない構造であることに気づいた石戸は、2018年4月に独立する道を選ぶ。

 SNSが普及した現代は、言葉への過信が異様なほどに高まっています。正しい言葉と意見表明ばかりが求められ、何を実践しているかより、瞬間的に同じ思いを共有するもの同士が「今、ここ」でつながり、消費される正しい言葉にこそ価値があると思われている。(本書)

 メディアもまた、陣営化し感情を突き動かすものを歓迎し、記者もそこに加担していく。石戸は、そうした新旧のメディアを横目に見ながら、「ニュー・ジャーナリズム」に再接近するという孤独な試行錯誤と挑戦を続けた。
 折しも沖縄では普天間飛行場の移設をめぐる県民投票が実施されようとしていた。ニューズウィーク誌からオファーを受けた石戸は現地を取材し「沖縄ラプソディー」と題するルポを発表する。
 善悪の二項対立では描けないもの。表層的な政争の奥にある複雑な現実。大きな主語で語られるものからはこぼれ落ちるもの。それこそ〝賛否を超えて語りあうことができる「未来」〟だと石戸は書いた。
 1カ月あまり経った2019年3月28日の朝日新聞「折々のことば」で、鷲田清一はこの石戸のルポから次の一文を取り上げる。

 関係はどこでも多層的。彼は容認派の人とも直に話せた。そこには、分断に終止符を打ち沖縄の未来をこそ考えたいとの共通の思いがあった。

 あの〝最後の式辞〟を鷲田が語ったのは、この3日前の3月25日。鷲田が石戸のルポに目をとめ、それを「折々のことば」で紹介したことは必然であっただろうと思う。
 石戸は、自分が〝ニュース〟だと感じた部分を鷲田が掬い取ってくれたと感謝を綴っている。
 新聞が部数減にスケールダウンを余儀なくされ、ネット空間にはPV稼ぎだけを目的とするような情報があふれかえっている。政治家は不安と不信を煽り、社会を分断することで求心力を得ようとする。フェイクニュースが国際政治を震撼させる。
 それでも、石戸はニュースというものの未来に希望を抱いている。それは「ニュースが求められなくなる時代などない」と考えているからだ。
 横行する悪貨を駆逐する方法はただひとつ。「良いニュース」という良貨を忍耐強くつくり続けること。
 では「良いニュース」が生まれるために何が必要なのか。
 石戸は〝ニュースの主役になる「人間」を問うこと〟であり、性急に答えを出そうとせず、不確実さや懐疑に耐える力を鍛えることだと綴る。それはニュースの送り手だけでなく、受け手にもまた求められるはずだ。
 石戸は、自身もまた試行錯誤の途上にいると語る。この世界の未来を考え、今までにない新しい何かをつくり出そうとしているすべての人が、本書によりひとつの〝希望〟を分かち合えることを祈り願う。

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