シリーズ:東日本大震災10年~「防災・減災社会」構築への視点 第5回 「日本版ディザスター・シティ」構想~一級の危機管理要員育成へ(上)

フリーライター
峠 淳次

はじめに

 東日本大震災から10年が過ぎた。この間の復旧・復興の歩みを振り返るとき、改めて痛感するものに「地域社会における危機管理体制の未熟さ」がある。危機管理において最も重要とされる初動段階で対応に躓(つまず)き、被害を拡散させ、その後の復旧・復興の遅れを招いてしまった被災市町村は少なくない。
〝躓き〟の原因を首長のリーダーシップのみに求めるのは短絡に過ぎよう。問題はむしろ、実際に現場で危機管理に当たった市町村の担当部局職員や地元消防・警察などの力量不足にあったように思われる。学校、企業、病院、自治会などの住民組織も含め、災害の際に最前線で指揮、対応に当たる実戦部隊、つまりは危機管理要員のレベルアップが欠かせない。

世界最高峰の危機管理要員訓練施設「ディザスター・シティ」の全景(米テキサス州)

 参考になるのが、その名も「災害都市」と訳される、米テキサス州にある世界最高峰の常設災害教育訓練施設「ディザスター・シティ」だ。
 広大な敷地内に再現された大規模火災の現場や脱線列車、崩壊住宅、がれきの山などで、消火や救命・救出、救急医療などあらゆる事態に対応した実戦的な教育訓練を行い、高度な知識と技術、スキルを兼ね備えた一級の危機管理要員を輩出し続けている。

苦い教訓~救えたはずの命たち~

東日本大震災直後、捜索活動などに当たる自衛隊員ら

 救える命だったのでは――。震災関連死も含めて2万人余もの犠牲者を出した東日本大震災では、そんな疑問を抱かざるを得ないケースが少なからずあった。
 例えば、全校児童108人中74人が犠牲となり、教職員も10人が命を落とした宮城県石巻市立大川小学校。あの日から10年が過ぎ、「戦後最悪の学校管理下の災害事故」の背後に現場の教員らの重大な過失があったことが明らかになっている。①地震発生後、防災行政無線は大津波警報を発令して高台避難を呼びかけ続けていたのに、教員らは50分もの間、児童全員を校庭に留め置いた②校舎のすぐ裏には体験学習にも使っていた「シイタケ山」と呼ばれる小高い山があったのに、なぜか、そこへの避難を決断できなかった③そして命運を左右した津波来襲の1分前、教員らは判断を誤り、シイタケ山とは逆方向の北上川の土手へ、つまりは津波の来る方向へと誘導してしまった――等々だ。いわゆる大川小津波訴訟で、司法が学校側の過失を認め、74人の児童の命を「救えた命」と断定したゆえんである。
 東京電力福島第一原発事故で過酷な避難を強いられた同県大熊町の双葉病院とその系列の介護施設の患者・入所者ら計50人が、移送の途中や搬送先で死亡した事件も同様だ。病院スタッフ、県警、自衛隊などの連携ミスから救援活動は後手に回り続け、避難が完了するまでに地震発生から5日もかかった。

大川小跡地で「あの日の教訓」を語る佐藤敏郎さん(正面中央)

 しかも、搬送に当たった自衛隊は患者の病状を把握できておらず、医療器具の揃っていないバスで200キロ以上の距離を10時間かけて走り続ける結果となってしまった。次々と息絶えていった重症患者らの命に対しても、「救えることができたのでは」との疑問が付きまとう。
 確認しておきたいのは、逝ってしまった大川小の教員たちにしろ、双葉病院の患者らの搬送に当たった人々にしろ、皆、懸命に子どもたちの、あるいは患者・入所者たちの命を守ろうとしたに違いないことだ。誰一人として、職務を放棄したわけでも現場から逃げたわけでもなかった。それなのに、ということである。
 当時、大川小で6年生だった次女を亡くし、その後、「小さな命の意味を考える会」を立ち上げて語り部活動を続けている佐藤敏郎さんも〝語り〟のたびに強調している。

先生方はサボったわけではありません。津波を目の前にしたとき、瞬時に子どもたちを抱きしめただろうし、庇おうともしたに違いありません。救えた命、救うべき命、救ってほしかった命……、それは先生方が救いたかった命でもあったのです。

でも、守れなかった。救えなかった。なぜなのか。大切な教訓です。子どもたちと一緒に波にのまれる瞬間の彼らの後悔、無念さを思うと、胸が詰まります。そこに向き合わなくてはと思っています。

 そう、大規模災害の現場にあっては、どれだけ旺盛な責任感と使命感があっても、専門の知識・情報や経験に基づく高度な意思決定能力と緊急事態管理の技能がなければ危機管理の任務を果たすことはできない。大川小と双葉病院の事例が残した貴重な教訓である。

「危機管理小国」~著しい知識・経験不足~

東日本大震災で復旧支援作業に従事する米軍

 そもそも日本は世界有数の災害大国でありながら、災害発生時における危機管理の体制は極めて貧弱な状態にある。
 早い話、災害が起きた際にいち早く最前線に立つことになる基礎自治体の防災専従担当者が圧倒的に不足している。一昨年(2019年)10~12月に共同通信社が行った調査によれば、全国市区町村の20.5%は防災の仕事に専従する職員がゼロで、専従1人という自治体も14.1%に上る。これらの自治体では、市民課など他の部署の職員が掛け持ちでカバーし、いわば〝素人〟が危機管理対応に当たっているという。人数を一定数確保している自治体でも、日頃から教育訓練を受ける場がなく、担当職員の知識・経験不足が課題となっていることも分かった。国は自治体職員らを受け入れて訓練を施す制度を設けているが、参加者は2013年度から20年度までの累計で250人程度にすぎない。
 消防や警察、都道府県、さらには電力会社など民間組織の危機管理体制の貧弱さも指摘しないわけにはいかない。例えば、ここ数年の自然災害を見ても、2018年9月の北海道胆振(いぶり)東部地震では、苫東厚真火力発電所1カ所が停止しただけで全道がブラックアウト(全域停電)してしまい、非常用電源の燃料不足という初歩的なミスで空港や病院など基幹施設の機能までも停止させてしまった。
 同年秋に関西地方を襲った台風21号で電源が失われ、約8000人が孤立状態に置かれた関西国際空港での初期対応もお粗末だった。安全保障と危機管理を専門とする静岡県立大学グローバル地域センターの小川和久客員教授は、

携帯電話会社の移動式基地局が持つ情報通信機能を有効活用していれば、少なくとも情報面での孤立は回避できたはず。脱出に際しても能力をフルに発揮できたのは民間の高速艇の会社だけだった

と指摘する。
 ことほどさように貧弱な日本の危機管理の内実をどう改善するか。カギを握るのはやはり「人」だろう。大川小や双葉病院、あるいは北海道胆振東部地震や関空事故などが残した〝苦い教訓〟に学び、自治体の防災担当職員から警察、消防、学校、さらには電力会社など民間組織の防災担当スタッフに至るまで、彼らをより高度な専門知識と情報、技術、スキルを兼ね備えた〝災害対処のプロ〟へと育成する視点が欠かせない。
 問題は、そのための本格的な教育訓練施設が国内にないことだ。がれき救助訓練施設一つをとっても、なるほど国内に3カ所あるものの、コンクリート板を外部から持ち込み、訓練終了後には破片とともにそれを撤去することを利用者に義務付けるなど、およそ臨場感のない施設で「畳の上の水練」を施すだけに終わっている。がれき救助も消防も津波・洪水による流水救助も、さらには原子力事故への対応も含めた、あらゆる事態を想定した実戦的な訓練ができる施設の創設が急がれる。
 こうした中、公明党福島県本部が去る3月11日、米テキサス州にある世界一の災害教育訓練施設「ディザスター・シティ」に倣って、原子力災害も想定した「日本版ディザスター・シティ」の構想を提言したことは注目される。次回以降、本場ディザスター・シティの訓練内容や成果を紹介しつつ、その日本版施設を原発事故後の福島に創設する意義と可能性について考察する。

シリーズ「東日本大震災10年~『防災・減災社会』構築への視点」:
第1回 「3・11伝承ロード」構想(上)
第2回 「3・11伝承ロード」構想(下)
第3回 つながる語り部たち(上)~東北から阪神、熊本、全国へ~
第4回 つながる語り部たち(下)~コロナ禍を超えて~
第5回 「日本版ディザスター・シティ」構想~一級の危機管理要員育成へ(上)
 
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とうげ じゅんじ●1954年大阪府生まれ。創価大学文学部卒。1979年公明新聞入社。 東日本大震災取材班キャップ、 編集委員などを経て2019年からフリーに。編著書に『命みつめて~あの日から今、そして未来へ』(鳳書院)など。