僕は1987年に福武書店(現ベネッセ)主宰・『海燕』新人文学賞をもらって作家デビューした。同時受賞者が吉本ばななだった。その数回あとの受賞者に小川洋子がいた。当時、お世話になっていた編集者の寺田博さんが、ある文壇酒場で、「ダイヴィングプール」という短篇を褒めていた。
僕はそれで小川洋子という作家を知ったのだが、何かのパーティーで遠くから見かけただけで、面識はない。それでも僕が信頼している編集者が褒めていたこともあって、ずっと注目していた。
彼女はやがて芥川賞を受けて、ベストセラーも出し、人気作家となった。最近では国際的な文学賞の候補にも名を連ねている。『海燕』新人賞の同窓としては(彼女はそうおもっていないかもしれないが)、慶祝である。
『小箱』は、小川洋子の最新作だ。かつて幼稚園だったところに住んでいる語り手の「私」は、遊戯室を居間兼食堂にし、職員室で書き物をし、保健室のベッドで眠る。しかし私のおもな仕事は、亡くなった子供たちの魂の番人である。
この元・幼稚園の講堂には、すでに廃墟となった郷土資料館から運んで来た備品・ガラスの箱がびっしりと並んでいる。中に入っているのは、子供たちの「遺品」。
満足に口もきけない幼子なら、おしゃぶり、初めての靴、これの耳を触りながらでないと眠れないウサギのぬいぐるみ。声変わりする前の少年なら、ボードゲーム、九九の暗記表、スナック菓子。女の子ならビーズのセット、お姫様の塗り絵、チロリアンテープ。ハイティーンの若者なら映画俳優の写真、野球のサインボール、ニキビ用の塗り薬……。
親たちは、繰り返し講堂を訪れ、子供の成長に合わせて、人形やドリルや酒のミニチュアボトルなどを持って来る。ガラス箱に納められているのは、ただの遺品ではないのだ。
死んだ子どもたちは箱の中の小さな庭で、成長し続ける。靴を履いて歩く練習をし、九九や字を覚え、お姫様のドレスを好きな色に塗って遊んでいる。
私の従姉も子供を喪い、火葬されたとき、とっさに足指の骨を喪服のポケットに入れた。それを材料にして、小さな、小さな竪琴をつくってもらう。私の町では、西風の吹く丘で、「一人一人の音楽会」がおこなわれる。参加者は、それぞれの、小さな、小さな楽器を耳たぶにぶら下げて、風が来るのを待つ。
小さな、小さな楽器が風に揺れ、参加者だけに演奏が聴こえる。それは死んだ子供たちの声なのだ。
歌うことでしか意思を伝えられなくなったバリトンさんは、遠くの病院から送られて来る恋人の奇妙な手紙を私に解読してもらいに来る。ときに町では、建物が爆破される。
何らかの理由で子供たちが死に絶え、大人たちは死者となった子供たちの成長を見守りながら生きる。これは一種のディストピア小説だろう。ただ、流行の作品と違うのは、告発や非難の声が、それほど大きくないことだ。
それよりも、死んだ子供たちの魂とともに生きることを喜ぶ声のほうが大きい。10年前の東日本大震災の直後から、さかんに死者論が語られるようになった。それは生き残ったものたちが、どう身を処せばいいのか、という生き方の問題でもあった。
この小説で語られる死者論は、生者のおごりを戒め、死者との共生を促す思想ではないか? 死者は饒舌に語る。しかしそれは生者が問いかける限りにおいてである。死者を単なる命の絶えた存在としかとらえられないと、彼らに問いかけることはない。
伝統を死者の民主主義といったのはチェスタートンだったか。生者は、積極的に死者に問いかけ、謙虚に彼らの声に耳を傾けねばならない。
お勧めの本:
『小箱』(小川洋子著/朝日新聞出版)