長嶺が方針転換した背景
今から40年前の1981年8月、沖縄空手界は2つに分裂した。
この年、空手が初めて国体の正式種目となり、滋賀国体(夏季)で組手と型の競技が行われた(同年9月)。6年後の87年にはその国体が沖縄に回ってくる。空手発祥の地・沖縄で開催される国体において、地元沖縄からだれも選手が出場しないという事態は、県政に関わる者からすればありえない選択だった。
当時の県知事は西銘順治(にしめ・じゅんじ 1921-2001)。保守系で1期目の半ば。90年に革新系の大田昌秀(1925-2017)に敗れるまで、西銘は3期12年を務める。87年の沖縄海邦国体を開催する責任者となったのもこの西銘だった。
西銘と長嶺は、長嶺が那覇市議時代から関わりがあった。まして西銘は長嶺が支持する保守系の県知事であり、そのよしみもあってか知事1年目に、長嶺は県から功労賞を贈られた。この西銘から懇願されることによって、長嶺としては極めて〝弱い〟立場に立たされたことは客観的に見て明らかだった。
まして国体において競技される36種目のうち、沖縄を発祥とする競技は空手だけである。そのことは県体協の大里喜誠会長が
全種目の国体出場のメドがついた。(『沖縄タイムス』1981年8月16日付)
と、安堵の気持ちを吐露した事実からもうかがえる。
ものの本によれば、長嶺が警察官あがりの人物で、警察筋からの説得に応じた旨を説明したものもあるが、その線は直接的な要因とはいえないと思われる。仮にそうした要請があったとしても、長嶺にとっては
若い人たちのために国体への窓口を開くことにはだれにも異存はなかった。(『沖縄タイムス』1981年9月7日付)
からだ。
そのため長嶺らは、いったんは全沖縄空手道連盟の組織をあげて全日本空手道連盟に加盟する方向で話し合いを進めたが、話はまとまらなかった。沖縄には沖縄のメンツがあり、ヤマトにはヤマト側の大組織としてのメンツがあった。結局、板挟みになった沖縄側の中心者が長嶺というわけだった。
このころ、笹川良一の莫大な金が流れているとの噂もまことしやかに流れている。
大里県体協会長の言葉を借りれば、6月30日を最後に全沖縄と全空連の話し合いは断念され、7月1日から大里の意向を担った長嶺将真を中心とする独自の行動が進められた。その日にデッドラインを引いたのは、9月半ばには滋賀国体で初めて空手競技が行われることが決まっていたため、逆算して8月には新組織を立ち上げておく必要があったということだろう。
長嶺は沖縄空手界の重鎮として、それまで安易な組手には警鐘を鳴らし続けてきた存在だった。それまで主張してきた内容と、自ら別の行動をとることにつながった。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」――。苦しい表現を使って全空連に加盟する理由を説明することになった。こうした行動が、長嶺に関し、沖縄空手界における賛意と反発の2つの側面を形成することにつながっていく。
新組織を自ら立ち上げる
県体協が主催する空手の国体参加のための推進会議は、公式には都合3回にわたって開かれた。会場は現在の武道館にほど近い体協会館。ここの会議室で1981年の7月23日、7月30日、8月5日と3回にわたって協議が続けられた。
2回目の会議では、長嶺が国体を成功させるために全空連に参加しようと呼びかけて終了。
最後の8月5日には、3時間にわたる激論の末、長嶺自身が決議することを提案。議決の結果、賛成28人、反対17人で賛成が上回り、ただちに設立発起人17人を選出し、長嶺を会長に選んだ(出典:渡嘉敷唯賢著『沖縄剛泊会空手道』1986年)。
8月7日に同じ体協会館で設立総会をもち、「沖縄県空手道連盟」を正式に立ち上げ、長嶺は初代会長に就任した。長嶺は沖縄空手道連盟、全沖縄空手道連盟の会長につづき、3つめの空手団体の会長職を経験することになる。そのような空手家は、沖縄ではほかに存在しない。
8月22日には八木会長の自宅で行われた全沖縄の理事会に長嶺も出席し、新組織を設立した理由について説明する場が設けられた。
8月25日、全空連への加盟を拒否してきた全沖縄空手道連盟は、それまで沖縄県体育協会に加盟していた資格を強制的に抹消され、長嶺の連盟が新たに登録されることになった。
県体協によるこの処分を「沖縄空手界に外部の力がはじめて作用した事件」と書いたのは、9月7日付の沖縄タイムスだった。
このとき地元空手界で長嶺を支える側に回ったキーパーソンは、沖縄小林流空手道協会の宮平勝哉(1918-2010)と剛柔流の宮里栄一(1922-1999)の2人だった。新組織では長嶺が初代会長となり、宮平は副会長、宮里は理事長に就任した。
宮里栄一は八木明徳と同じく、剛柔流開祖の宮城長順(1888-1953)の薫陶を受けた人物だったが、宮城の最晩年の弟子にあたり、八木は宮城の初期のころの弟子だった。その意味では八木のほうが剛柔流の大先輩に相当したわけだが、このとき剛柔流は2つの組織に分裂することになった。
上地流は大方が全空連加盟「反対」でまとまり、一部は長嶺批判の急先鋒となった。
長嶺将真の行動が正しかったかどうかは、40年たった今も完全には決着がついていない。ただはっきり言えることは、その後の国民体育大会(85年)で、沖縄県出身の選手(佐久本嗣男)が初優勝を経験したほか、組織分裂の要因となった肝心の沖縄海邦国体(87年)においても、空手競技で沖縄県が堂々の優勝を果たして「発祥の地」としての面目を保つことができたことだ。
当時から、国体だけでなく将来は
大規模な世界オリンピックにおいても空手道が競技種目として登場する場合に備え、県内の空手人は日々研鑽、鍛練に努力する。(『沖縄タイムス』1981年9月7日付)
と掲げた沖縄にとって、そのオリンピックの空手競技(8月5~7日)が沖縄県空手道連盟発足からちょうど40周年の日(8月7日)を迎えるなかで東京で行われるリズムとなったことは不思議な符合といえる。(連載つづく)
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