朝日カルチャーセンターでの対談をまとめた本というので、読みやすいだろうとおもって手に取った。確かに読みやすい。しかし分かりやすくは、ない。この本をきちんと紹介するには、この本についての本を、もう1冊書かなければならない。
ホストは、熊谷晋一郎。生まれたときの後遺症で、脳性麻痺の障害を持つ。車椅子での生活を送りながら、東大の医学部を出て、医師になった。「当事者研究」の研究、実践もしている。
「当事者研究」とは、医療などの専門家と病をかかえた患者が共同研究者となって、当事者が、「知の消費者」から「知の生産者」になり、知の領域にも関わっていくことだ。おもに精神病や依存症の自助グループから始まった。
熊谷が対談相手に選んだゲストは、大澤真幸(社会学者)、上野千鶴子(フェミニズムの研究者・実践家)、鷲田清一(哲学者)、信田さよ子(臨床心理士)。彼らとともに語り合うテーマは、「痛み」である。
「痛み」について、記憶や快楽や臨床などの観点から、語っていく。僕がいちばんおもしろかったのは、大澤真幸の回で、「痛み」と物語についての考察だった。
人が痛みを負う。体の痛みは治療できる。慢性疼痛のように、原因が分からず、治らない傷の場合、精神分析という方法がある。痛みに意味づけをし、物語にしてしまう。たとえば、「幼児期にこのような出来事があり、そのために不幸を背負ってしまったから、それが傷になった」――と説明されると、痛みが消える。
しかしこれは「古いタイプの傷」だとフランスの哲学者カトリーヌ・マラブーはいう。彼女は「新しい傷を負った人」という概念を考えた。それは、意味づけ、物語化では、癒えることのない傷を負った者のことだ。彼らの痛みは、従来の精神分析の手法では消えない。
人間を定義するとき、個人である前に社会的な存在だという考えがある。対極にあるのは、まず、個人であって、その後に社会的な存在になるという考えだ。後者の切り札として挙げられるのが、痛みだ。
歯が痛むのは、この私であって、おまえさんに代わってもらうことはできない、というわけだ。だが、大澤は、個人的な体験である痛みが、他者とつながる契機になるという。
ダルクという依存症回復者施設がある。ここで行われるミーティングには、「言いっぱなし・聞きっぱなし」というルールがあるそうだ。それぞれが自分の痛みを語るのだが、それに対して周りは一切応答をしない。
他の人の語りを聴く中で、徐々に自分の中で、自分の痛みについて語る言葉が編集されていく
仲間の間で語りや物語が共有されていく
これに対して大澤は反応する。それなら、
壁に向かってしゃべればよいではないか、一人個室で内省すればよいではないか、と思うけれど、それもまたダメなのです。「わかった」という反応を示さない他者がそこにいる、ということが、ある効果を果たすわけです
個人を他者から分かつベクトルそのものによって、痛みが、逆説的に共感される
どういうことか? 大澤にパラフレーズしてもらおう。
他者の痛みへの真の共感とは、それは私にはわからない、私からはそこにどうしても到達できないということを、痛切に実感することのほうにある、とも考えられるわけです。共感の不可能性こそが共感だという逆説があるわけです
痛みをあえて放置することで、他人からは理解したり感情移入したりできないものとしての中核的な痛みへの「真の共感」が形成されている
痛みというのは、個人を他者から分かつベクトル、人を孤立へと向かわせるベクトルがあるわけですが、まさに、そのベクトルこそが、同時に、人を他者へと関係づける力としても機能する
これはコミュニケーションできないことを、コミュニケーションすることだ。さらに大澤の言葉を聴こう。
コミュニケーションができるということは、実は物語になるということなのです。したがって、コミュニケーションの不可能性をコミュニケーションするということは、物語化の不可能性を組み込んだ物語ということになります
大澤がダルクのミーティングに見出した可能性は、「物語化の困難そのものをコミュニケートする手法を編み出した。そのように物語が破綻してしまう瞬間を内部に封じ込める手法を編み出した」からだという。
人間は、良くも悪くも、物語を生きる存在だ。生きることには、痛みが伴う。「新しい傷」にダルクの編み出したような「新しい物語」は有効なのか? アジアの物語作家を自任する僕としては、よく考えてみたい。
お勧めの本:
『ひとりで苦しまないための「痛みの哲学」』(熊谷晋一郎×大澤真幸、上野千鶴子、鷲田清一、信田さよ子/青土社)