僕は、「脱原発社会をめざす文学者の会」の事務局長をしている。会長は、日本文壇の長老・加賀乙彦さんで、昨年90歳を迎えられた。しかし思考もシャープだし、昨年だけで3冊の著作を刊行するという健筆ぶりで、この人のように歳を重ねたいとおもう尊敬する先輩だ。
この会は、名称はいかめしいが、活動は、けっこうゆるい。それを不満におもう人もいるぐらいだ(なにしろ、だらしないこの僕が、事務局長が務めていられるのだから)。まず、政治活動はやらない。
では、なにをやるかといえば、福島の被災地を視察したり、話を聞きたいとおもった人を招聘して講演会をやったり、会員がおもいおもいの文章を書いて会報を出したり、なにより文学者としていちばん大切な作品を書く作業に努める。
実は、僕も書く書くといって、なかなか書かなかったのだが、ようやく200枚ほどの小説の草稿ができた。いま推敲の作業に入っているところで、年末には完成させて、来年の3月には出版したい。
僕が福島の被災地を視察したのは、2年前になるとおもう。帰宅困難区域に入って、町の様子、その区域に住んでいた人の家など、1日じっくり視察した。そのとき、ここは放射線量が高いので、防護服を着ないといけない、といわれた地域の様子を見て、深く震撼した。
普通なのだ。大きな地震があったあとなので、傷のある建物も見えるが、そのほかは人がいないだけで、何か特殊な風景があるわけではない。どこにあってもおかしくない地方の街並みが、そこにある。そして、極めて、静かだ。
僕を震撼させたのは、この静けさだった。放射線量が高くて、人が住めない。いや、人だけでなく、生き物が住めない。そんな深刻な被害を受けたにもかかわらず、俳優のいない映画のセットのように、ひっそりしている。このような滅びの姿もあるのだとおもった。
僕らの乗っている車のほかには、動くものがない。原子力の被災地は、被災した町は、こんなふうに死んでいくのだ。
ふと、ほかの人たちが乗った車が道端に停まっているのが眼に入った。外に出ている人は、防護服を着ている。やっぱり、ここは原子力の被災地なのだ、とあらためて実感した。書かなければいけないとおもった。この風景を目撃した僕には、書く責任ができたとおもった。
福島の被災地のことは、そこに住んでいた当事者にしか書けない、という意見がある。僕は、それは違うとおもう。直接の被災者には、その体験を書いて欲しい。しかし、原発のことを考えると、実は、当事者でないものは、この国に存在しない。
日本には50基を超える原発がある。そのおのおのが事故に見舞われる可能性がある。すべての日本人は、原子力の災害をこうむることがありうる潜在的な被災者である。つまり、当事者なのだ。
ぼくは、そういうおもいで、200枚の中篇小説を書いた。参考にした資料はたくさんある。なかでも、とても興味深かったのが、『戯曲 福島三部作』だった。作者は、福島生まれの母親と、原発で働いたこともある父親を持っている。
2011年の3月12日に福島第一原発の事故が起きて以来、
原発事故にまつわる「なぜ」を演劇にしたいと考えてきた。なぜ原発はあんな田舎、福島県の浜通りになんて建てられたのか? なぜ安全神話はあんなにも強化されてしまったのか? なぜ日本は脱原発できないのか? なぜ原発事故は起きてしまったのか?
芝居は、原発立地である双葉町を舞台として演じられる。
「第一部1961年:夜に昇る太陽」。おもに、東京電力から密かに現地調査に来た男と、貧しい町を何とか豊かにしたいと願う田中町長らが談合して、双葉町に原発が誘致されるまでが描かれる。
「第二部1986年:メビウスの輪」。原発を誘致した田中町長が汚職に手を染め、町長選が行われる。担ぎ出されたのは、原発反対派で社会党系県会議員まで務めた穂積忠。自民党の県会議員の秘書に説得され、脱原発の旗を降ろして、町長になる。そこで起きたチェルノブイリの原発事故。忠は原発について考え直すべきと考えたが、結局しがらみに負け、町長として、「日本の原発は安全です」と宣言する。
「第三部2011年:語られたがる言葉たち」。福島原発事故後の被災地や被災者たちが描かれる。町長だった忠は認知症になり、原発事故のことを喚き散らす。地元のテレビ局では、事故後の福島の現実を伝えようと苦心する人々がいる。
作者は何度も現地取材を重ねて、人々の声を聴き、福島原発の50年にわたる歴史を戯曲として刻みあげた。登場人物たちの心理は、実にリアルで、これを舞台で観たら、また違った味わいがあるだろう。
しかし、戯曲として読むだけでも、言葉に力がこもっていて、十分に堪能できる。
参考文献:
『戯曲 福島三部作』(谷 賢一著/而立書房)