連載エッセー「本の楽園」 第101回 詩の読みようについて

作家
村上政彦

 某大手書店の偉い人と会食をしたとき、「文学は売れません」と断言された。分かってはいたが、読者にいちばん近い現場の人に言われて、あらためてがっかりした。しかしその人は続けて、「ところが茨木のり子は売れるんです」と言う。
 茨木のり子は詩人だ。僕も名前は知っているし、何篇かの詩は読んだ記憶があった。ただ、日本において、詩は、小説よりも、さらに売れないジャンルである。海外では、詩が売れる国もあると聞く。
 しかし、日本では、詩が売れる、と聞いたことはない。僕は、茨木のり子に関心を持った(そりゃそうでしょう)。そして、家に帰って書庫にあった彼女の本を探した。『詩のこころを読む』という本があった。
 まだ読んでいない。僕の書庫には、未読の本がたくさんある。本好きの人なら分かるとおもうが、いつか読もうと買っておいた、いわゆる「積読」の部類だ。見ると、岩波ジュニア新書とあった。中高生向きの詩の入門書だ。さっそくページを繰ってみる。

 いい詩には、ひとの心を解き放ってくれる力があります。いい詩はまた、生きとし生けるものへの、いとおしみの感情をやさしく誘いだしてもくれます。どこの国でも詩は、その国のことばの花々です。

 冒頭から引きつける。さて、その先は――

 私は長いあいだ詩を書いてきました。ひとの詩もたくさんよんできました。そんな歳月のなかで、心の底深くに沈み、ふくいくとした香気を保ち、私を幾重にも豊かにしつづけてくれた詩よ、出てこい! と呪文をかけますと、まっさきに浮かびあがってきたのが、この本でふれた詩たちなのです。

 これは読まざるを得ない。最初に引いてあるのは、谷川俊太郎の詩だ。

 あの青い空の波の音が聞えるあたりに
 何かとんでもないおとし物を
 僕はしてきてしまったらしい

 透明な過去の駅で
 遺失物係の前に立つたら
 僕は余計に悲しくなつてしまつた
 (かなしみ『二十億光年の孤独』より)

『二十億光年の孤独』は、谷川俊太郎の青春の詩集だ。茨木のり子は、この詩を読み解いていく。

 生まれてくるとき、人はどういうところを通ってきたのでしょうか。
「私はどうして今、ここにいるのだろう」
「いったい何をやっているのだろう」
「なんのために生まれてきたのだろう」
 思い出せそうで、うまく思い出せない世界。両親がいたから生まれてきたのに間違いはないけれど、もう一つ別の、抽象的なルートに思いを馳せるようになったとき、人は青春の戸口近くに立ったことになるのでしょう。

 何だか道に迷って戸惑っていたら、向こうから手招きをされた感じ。そうか、この道を進めばいいのかとおもえる。

何か大事なものを忘れているという、この「忘れものの感覚」は、詩の大きなテーマの一つですが、日本語でこれほど澄みきったものとして提出された例は、今までになかったような気がします。

『詩のこころを読む』は、「1 生まれて」「2 恋唄」「3 生きるじたばた」「4 峠」「5 別れ」と人の生涯をなぞるような構成になっている。「かなしみ」は「1 生まれて」。「2 恋唄」では、12歳で自死した岡真史の「みちでバッタリ」という詩を引く。

 みちでバッタリ
 出会ったヨ
 なにげなく
 出会ったヨ
 そして両方とも
 知らんかおで
 とおりすぎたヨ
 でもぼくにとって
 これは世の中が
 ひっくりかえる
 ことだヨ
 (『ぼくは12歳』より)

「みちでバッタリ」という詩で、この少年の魂に、それこそバッタリ出会えたような気がするのです。五年、十年、つきあったってうまくはとらえられない人の心ですが、良い詩は瞬時に一人の人間の魂を、稲妻のように見せてくれることがあるのです。

「3 生きるじたばた」では、岸田衿子の、こんな詩が――

 くるあさごとに
 くるくるしごと
 くるまはぐるま
 くるわばくるえ
 (『あかるい日の歌』より)

 ときどきとなえたくなる呪文の一つ。
 大人も子供も、毎日毎日、時計のぜんまいを巻くように、ぎりぎり予定を巻きあげて日程を消化するのにせいいっぱい。なぜ、こんなに忙しい思いをしなくちゃならないのか、これが生きることのすべてなのかしら?

詩は感情の領分に属していて、感情の奥底から発したものでなければ他人の心に到達することはできません。

 岸田衿子の詩は、じたばた生きる「感情の奥底から発したもの」なのだろう。

散文ですっかりときほぐせ分解できるものならば、それは詩ではありません。散文で解析できないからこそ詩なのです。

『詩のこころを読む』には、ほかにもたくさんの詩が取り上げられている。よく分からないものもある。しかし、茨木のり子という詩人の前には、詩の秘密の扉が開かれる。それは彼女が詩の良き読み手であるからに違いない。
 俳句の場合、作品を読み解いて選ぶ「選」もまた、創作であるという。これは詩の場合もそうではないか。良き読み手は、良き書き手なのだ。詩の秘密を読者に開いて見せる手際を見ていると、彼女の本が売れる理由が、何となく分かった気がした。

参考文献:
『詩のこころを読む』(茨木のり子著/岩波ジュニア新書)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。