連載エッセー「本の楽園」 第100回 身体知について

作家
村上政彦

 いずれAI(人工知能)が人間を超えるという見方がある。僕は、そういう考えを見聞するようになって、身体に興味を寄せるようになった。AIは、いわば機械的な脳だ。そこに身体はない。人間は身体を持っている。これが知に影響を与えることはないのか?
 身体知についての本を何冊か読んだなかで、いちばんおもしろかったのが、『「こつ」と「スランプ」の研究 身体知の認知学』だった。サブタイトルを見ないと、一見、ビジネス書のようにおもえる。編集者の苦心が窺えるタイトルだ。確かに、「身体知の認知学」だけでは、僕のような読者しか手に取らないだろう。
 でも、読みだしたら、ほんとにおもしろい。専門書のような難解さはかけらもない。「はじめに」で身体知について定義がある。

「身体知」とは、身体と頭(ことば)を駆使して体得する、身体に根ざした知のことです


 さらに、こうある。

身体知の学びは、身体と言葉が共に創られる(以後、「共創」と称する)現象なのです

 また、こうもいう。

身体知をうまく学ぶには、身体と環境の相互作用で生まれる体感に向きあい、それをことばで表現しようと努め、体感の微妙な差を感じとって比較し、体感を制御したりつくりだしたりする生活習慣を持つのがよい

 著者は、身体知を学ぶ方法として、「からだメタ認知」を提唱する。「‹モノ世界›(注・身体の属する世界)への眼差しを自覚して、それを丹念にことばで表現すること」(「ことばと体感を常に結びつけること」)だ。

ことばシステムの役割は世界を分節化することです。身体システムは自分の身体を含めた世界をその全体性で捉えます。からだメタ認知メソッドは、この両システムに橋を架ける作業

 身体で感じているだけ、言葉で理解しているだけでは、身体知ではない。
 身体知は、情報や知識と異なり、「からだの感覚や生活の実体に根ざして体得されたものごと」なので、「数や四則計算という概念も、生活での文脈に照らして、からだで理解しているのであれば、身体知」といえる。
 たとえば「腑に落ちる」という言い方がある。これは、言葉だけで分かろうとしていたことが、身体をも通じて理解できた状態だ。つまり、「身体とことばの共創」とは、「身体とことばの二重構造(注・現象学でいうと、モノとコトの二重構造)でわかる」ことをいう。
 身体知はモノとコトから成立している。身体がモノで、ことばがコト。デカルトのいう物体がモノで、精神がコトである。
 すると――

客観的に把握が可能なモノ世界と、一人ひとりの心の働きとしてのコト世界の二重構造で成り立つからこそ、身体知は個人固有性を孕む

 身体知の在り方は、人によって違うことになる。
 また、コンピュータなどの行う情報処理モデルには、物体としての身体が欠けている。認知科学の最新モデルである「認知カップリング」では、

環境はもはや心身の外側の存在ではありません。身体と環境が一体になった場で知覚と行動が生じ、その二つと完全に同等の関係で思考も存在するのです。すなわち、知覚・行動・思考の全体が、環境に埋め込まれ、環境と一体になって状態を遷移させるのです

ひととコンピュータを比較してみることで、身体知という現象において本質的なのは、身体の存在、身体と環境の相互作用、そして自分なりの意味づけであることがわかります

 さらに、人の身体は環境と連続した存在である。

例えば、里山を黙々と歩いて自然と一体になっているとき、ひとはそうした体感に浸っているのでしょう。無分節であるが故に、本人の意識が及ばぬ状態で、身体の内と外のあいだに何らかの交信を有することが、身体のシステムの為していること

 つまり、身体知は、身体を持たないAIの及ばないところにある。僕らは、身体知を学ぶことで、自然=宇宙と交信することができるのだ。僕は、小説家なので、身体知と言葉の在り方に強い関心を持つ。言葉に身体性を持たせたい。身体知そのものである言葉を得たいものだとおもう。
 ちなみに、こつとスランプについて。

からだメタ認知メソッドは、長く辛いスランプ時期を乗り切る手段であると私は考えています。辛くても、ことばで身体動作や体感や知覚を表現し、様々な着眼点に気づき、着眼点どうしの関係を模索し、ことばと体感を結びつける努力を払うことが、スランプを乗り越え、新たなこつを体得する秘訣なのです

参考文献:
『「こつ」と「スランプ」の研究 身体知の認知学』(諏訪正樹著/講談社)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。