親しくしている作家からコロナ見舞が届いた。巣籠り生活で、どっさり本を読んだだろうから、意見交換しないか、というものだった。さっそく、最近になって手に取った本を棚卸した。
そのうちの1冊が、『コロナの時代の僕ら』だ。著者は、まだ若いイタリアの作家パオロ・ジョルダーノ。ある新聞に書いたコロナについてのエッセイに反響があり、日々の記録をエッセイ集としてまとめた。
僕はこの空白の時間を使って文章を書くことにした。予兆を見守り、今回のすべてを考えるための理想的な方法を見つけるために、時に執筆作業は重りとなって、僕らが地に足をつけたままでいられるよう、助けてくれるものだ。でも別の動機もある。この感染症がこちらに対して、僕ら人類の何を明らかにしつつあるのか、それを絶対に見逃したくないのだ
作家としては、文章を書くための、まっとうなモチベーションである。コロナ禍が始まって、日本で緊急事態宣言が出されたころ、僕は犬の散歩で川べりの土手を歩いて、ある感慨にとらえられた。
そのころは桜の季節で、土手沿いの桜並木は満開だった。ほかに人は歩いておらず、僕は自分の犬とゆったり歩いていた。きれいだな、と桜を見上げて、ふと、コロナも自然のことだ、とおもった。
春になると、美しい桜が咲く。これも自然。コロナウイルスが猛威をふるう。これも自然。僕ら人類は、これまでも、ペストや天然痘やスペイン風邪や、厄介なウイルスと向き合ってきた。でも、それはみな、自然のことなのだ。
僕らは、コロナウイルスによって、人間が自然の中に生きていることをあらためて知った。そして、現在、グローバリゼーションによって人類が分かちがたく結びついていることも知った。
僕らは人類がずっとそうしてきたように、自然と調和して生きていかなければならないし、これからは環球的な視座で物事を考えていかなければならない――この認識はコロナによって与えられたものだろう。
ジョルダーノも書いている。
つまり感染症の流行は考えてみることを僕らに勧めている。隔離の時間はそのよい機会だ。何を考えろって? 僕たちが属しているのが人類という共同体だけではないことについて、そして自分たちが、ひとつの壊れやすくも見事な生態系における、もっとも侵略的な種であることについて、だ
確かに、人類は自然を侵略してきた。自分たちが万物の頂点に立っているかのようにふるまってきた。しかしそれは違う。いまはコロナウイルスという、普通には見ることのできない、微細な存在にさえ、おたおたしているではないか。
人間は、自然に対して、もっと謙虚にならなければいけない。こんな当然のことを、僕らはコロナから学んだ。
さて、コロナが奪ったものは何か?
僕の友だちにひとり、日本人女性と結婚した男がいる。夫婦はミラノ県に住んでいて、五歳の娘がひとりいる。ちょうど昨日、母と娘がスーパーへ買い物に行くと、二、三人の男たちから、何もかもがお前らのせいだ、さっさと国に帰れと怒鳴られたという。しかも、中国に帰れ、と言われたようだ
日本では「自粛警察」なんて、わけのわからないものが現われた。コロナが僕らから奪ったもの。そのひとつは他者への寛容さである。人は余裕のあるときには、他の人に寛容でいられるものだ。でも、余裕のないときの寛容さこそ、本物ではないか?
僕は、自分への戒めとして、この文章を書いている。どれだけ余裕がなくなっても、他者に寛容でいられますように、と。
もうひとつ、コロナが僕らから奪ったもの。それは他者の体温だ。ソーシャルディスタンスは、他者の体温を感じる機会を奪う。僕らから、握手をする機会を、人の肩に手を置く機会を、ハグする機会を奪う。心が冷えているとき、僕らは他者の体温を必要とする。それが、いまは奪われている。
僕は作家なので、日常的に言葉と向き合っている。せめて、体温を感じとれる言葉が書きたいとおもう。
ジョルダーノは、コロナ禍が終息したとき、この苦しい時間をむだにしないため、「元通りに戻ってほしくないもの」のリストを作っておこう、という。これはコロナから与えられるものになるだろう。いや、そうなって欲しいとおもう。
参考文献:
『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ著/飯田亮介訳/早川書房)