洞窟内の那覇警察署
長嶺将真は1944年10月、首里出身の女性、喜瀬ヨネと入籍した。長嶺が37歳、ヨネは27歳だった。
それからわずか数日後、那覇市内がほぼ壊滅することになる「10・10空襲」が発生した。日本軍はほとんどなすすべもなく、街は破壊され尽くした。
初めての本格的な空襲を受けた住民は、当初は友軍である日本軍の演習と勘違いした人もいたようだったが、米軍機とわかると、かねて想定していた防空壕に避難した。沖縄には自然にできた壕がたくさんある。さらに独特の亀甲墓の中はそれなりの空間があって、逃げるにはちょうどよい場所だった。
那覇警察署に勤務していた長嶺によれば、この空襲で那覇署員の殉職者は発生しなかった。それでも那覇の家屋のほとんどが灰と化し、住民には突然の北部への避難命令が出て、ごった返した。この中には長嶺の両親も含まれていたと考えられる。
警察官であった長嶺らは那覇に残って職務を続けた。この空襲を受けて、九州などへの県外疎開の希望者が急増した。その受付窓口となった警察は、てんやわんやの忙しさとなった。さらに那覇署の建物自体が焼けてしまい、急場の警察署があてがわれた。那覇署の場所はその後転々と移ることになった。
那覇署は、最悪の事態に備え、安全な場所を確保する必要に迫られた。真和志村(戦後、那覇市に編入)の繁多川(はんたがわ)の自然壕が広く、使えそうだとわかると、100人規模の人数が仕事をするために改造された。この作業は真和志村役場と共同で行われた。
繁多川の自然壕は、識名園の近くで、首里城からもそれほど遠い距離ではなかった。島田知事をはじめとする県庁も、その後こちらに合流することになった。一方、日本軍は首里城地下に壕を掘った。
長嶺ら那覇署員が繁多川の壕に移ったのは、米軍上陸直前の1945年3月下旬のこと。昼夜を問わず、数十本のろうそくで灯りをとり、「食糧も豊富で、わりとにぎやかだった」と同僚の山川泰邦は自著に記している。以来、空前の地上戦となる沖縄戦が行われた2~3カ月間、米艦からの艦砲射撃とグラマン機による空襲、さらに米軍歩兵部隊による火炎放射器などによる掃討作戦を避けるため、日中はまったく外を出歩けず、移動は夜間の闇にまぎれてひそかに行われた。
米軍に投降する
5月には首里城地下にあった司令部が米軍に占拠され、那覇署員が仕事をしていた繁多川の自然壕からは、日本軍が使用するとの名目で追い出された。
長嶺らは南部の摩文仁方面に向かって、署員一体でなく、小さなグループに分かれて移動した。長嶺の目的地は糸満警察署の壕で、そこにたどりついたのは6月上旬のことだったという。6月23日ごろになると、牛島司令官らの自決が知られるようになり、この時点において日本軍の正式な戦闘は終了する。
長嶺らも、これ以上仕事を続ける意味はないと判断し、自ら投降して、捕虜となった。
1993年に編まれた『沖縄県警察史・第2巻』では、沖縄戦で警察官らがどのように行動したかが網羅的にまとめられているが、警察だけでも殉職者は定員の2割を超える106人にのぼっている。
38歳の長嶺が投降したとき、髪の毛は疲労と緊張ですべて白髪に変わっていたという。容貌は60歳に見られるほどに変化していた。
最初に収容された伊良波収容所(豊見城)で、あるとき本を拾う。表紙を見ると、船越義珍の『空手道教範』だった。これは長嶺が、「空手こそが自分の使命」と、改めて実感する機会となった。
私はそこに偶然以上のものを感じたのである。天は私に空手に生きよ、と告げているのだ、と感じとって、その日から敗戦の苦しさの中に希望の光明を取り戻し、新たな覚悟を決めた。(『沖縄の空手道』)
2つめの収容所は、宜野座村(当時は金武村)の収容所だった。当時、米軍の都合で収容所を移動させられることは日常茶飯事だった。長嶺はそこで8月15日を迎えたと思われる。
実はその3日前、妻・ヨネは、長男となる高兆(たかよし)を出産した。爆弾の中を大きなお腹を抱えて逃げ続けてきたヨネが、「長男の胎教は爆弾の音だった」と戦後に語ったのはそのとおりだった。
だが〝跡取り息子〟の誕生という慶事と裏腹に、北部(いまの名護市三原)に疎開していた将真の母・ゴゼイは戦後まもない8月25日、マラリアで亡くなる。享年72歳。理由はわからないが、将真は母の思い出はほとんど何も書き残していない。
母が亡くなった頃、警察関係者から長嶺のもとに連絡が入った。具志川の田場(現在のうるま市)に警察学校ができたが、教官が足りないので来てほしいとの要請だった。戦後、長嶺は警察学校の教官として再スタートする。
しばらくすると、田井等(たいら)市(現在の名護市内にあった臨時の自治体)の警察署副署長として来てくれという話が持ち上がり、12月からしばらく、田井等市でも仕事をした。
そうして1946年5月、長嶺は那覇署勤務の辞令を受け、焼け野原となってまだほとんどだれも住んでいなかった那覇に戻ってきた。県民の多くは各地に設けられた収容所で生活をつづけており、那覇は廃墟と化したままだった。(連載つづく)
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