長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第3回 病気で伏せり空手で蘇生する

ジャーナリスト
柳原滋雄

商業2年のときに唐手を始める

 長嶺が現在の高校にあたる那覇商業学校に入学した1922年(大正11年)は、日本空手史のエポックを画した年として知られている。
 長嶺の泊小学校在学中に運動会で唐手(からて)指導をしてくれた富名腰義珍(ふなこし・ぎちん 1868-1957)が、文部省主催の第1回運動体育展覧会で唐手を披露するため上京した。4月のこととされるが、それを見学した柔道の嘉納治五郎(かのう・じごろう 1860-1938)の勧めにより、講道館でも演武することになった。富名腰は小規模な演武会を想定していたが、かなりの人数が集まる盛大なものとなったようだ。
 ここで、当時東京商科大学(現在の一橋大学)の学生であった沖縄出身の儀間真謹(ぎま・しんきん 1896-1989)とともに、自身はクーサンクーを演じ、儀間がナイハンチを行っている。さらに2人で約束組手を行った。このとき、嘉納から東京での沖縄空手の普及を勧められた富名腰はその気になり、その後の半生を本土での空手普及に捧げる身となった。富名腰はこの年の11月、日本で最初の空手の本となる『琉球拳法唐手』を発刊している。
 一方、富名腰と同世代で武人として知られた本部朝基(もとぶ・ちょうき 1870-1944)も同じ11月、京都市で行われたボクシング興行で希望者の立ち合いを求められ、飛び入り参加してボクサーと対戦、一発KOする出来事が起きた。本部はこのときすでに50の坂を越えていた。この事件はそれから3年後、講談社発行の月刊誌『キング』に大きく取り上げられ、日本社会が沖縄空手に畏敬の念を抱くきっかけとなった。
 長嶺は沖縄の唐手が東京と関西で同時に披露されたその年に、中等学校(現在の高校)の那覇商業学校に進学した。長嶺が本格的に唐手を始めるきっかけは、翌年の2年生のときに訪れる。
 本人の著作によると、

胃腸病にかかり1年余りも病床にふす身になってしまった。

 だが、医者通いをするものの、一向によくなる気配はなく、近隣の先輩の勧めで唐手の真似事を始めた。先輩の名は久場長仁(くば・ちょうじん 1904-89)。長嶺よりも3歳年上で、その人の庭先で見よう見真似で稽古を始めたのである。するとどうだろう。

毎日少時間ずつ、軽い稽古を続けていくうちに、体調は日を追って回復し、いつのまにか胃病は根治していた。

同じ学校のよしみで長嶺に空手を教えた島袋太郎

 長嶺本人の記述によると、それは劇的な変化に近かったようだ。実は沖縄ではこうした話は珍しくない。多くの武人が少年期に虚弱体質で、唐手を始めて克服した体験談が多く残っている。長嶺もその例にもれなかった。
 唐手に関心を持ち始めた長嶺は、次に久場の師匠であった伊波興達(いは・こうたつ 1873-1928)の教えを受けるようになった。伊波は泊手中興の祖といわれる松茂良興作(まつもら・こうさく 1829-98)の最後の直弟子といわれた人物で、長嶺の両親と同い年の、年配の武人だった。当時の年齢で50歳くらいである。
 稽古場所は近くの泊小学校の校庭。長嶺はこのころ16歳、いまでいうところの高校1年の年齢である。自ら興味をもった唐手への吸収力はすばらしく、すぐに伊波の指導だけでは物足りなく感じるようになったのだろう。
 当時、那覇商業の1学年上に、首里から通ってくる唐手の使い手で有名な先輩がいた。名前を島袋太郎(しまぶくろ・たろう 1906-80)といった。その人物に唐手を教えてもらえないか頼みに行ったところ、快諾してくれた。以来、学校が終わると、首里までおよそ片道4キロの道のりを毎日のように通うことになる。

足尖蹴りの名手・新垣安吉に師事する

 当時、まだ街灯もない大正時代の後半のこと。首里城を遠目にみながらそのわきを歩む首里鳥堀までの道のりは、なだらかな登り道だった。島袋の実家は資産家で、裕福な家庭であった。首里3カ村として知られる鳥堀、赤田、崎山はいずれも琉球政府に認可された泡盛製造所が密集する場所で、盗賊などから守るために唐手が発達した首里手の本場ともいえる地域だった。そんな場所で生まれ育った島袋は、負けず嫌いの性格で有名だった。
 長嶺は伊波興達らから泊手の空手を習ってきたが、ここで初めて、島袋を通じて首里手にも接することになった。稽古場所は島袋邸の庭や近くの墓地などが使われた。稽古に明け暮れて遅くなると、そのまま家に泊めてもらい、一緒に学校に登校することもあったようだ。
 まじめな長嶺と喧嘩早い島袋。この異色の組み合わせが、その後の長嶺の人生を方向づけていく。
 片道1時間の道のりを歩くだけでも十分な運動になったはずだが、その上でみっちりと唐手の稽古をこなしたことでみるみるうちに肉体改造がなされ、病弱なころの長嶺の面影は跡形もなく消え去っていた。
 さらに島袋は、自分で指導するのはもうこの辺で限界と感じたのか、自分の唐手の師匠を直接長嶺に紹介するに至る。島袋が当時師事していたのは新垣安吉(あらかき・あんきち 1899-1929)という長嶺より8歳年上の人物だった。長嶺が18~19歳のときの27歳である。

長嶺の最初の師匠となった新垣安吉

 新垣は足の先端を固めて蹴る「足先蹴り」の名人として知られたが、それ以上に長嶺たちにとっては「よき兄」として頼られる存在だった。そうした経緯もあってか、長嶺は島袋のことを「同志」という名称で著書に記載している。
 新垣は唐手だけでなく、多くの沖縄文化の素養を身につけさせてくれた。琉球舞踊もその一つだ。
 長嶺の那覇商業時代の後半は、ほぼ唐手の稽古に明け暮れた日々といえる。島袋太郎がその橋渡し役となった。
 そうした経緯もあって、20歳で徴兵検査を受けたときには、見事に甲種合格を果たした。当時の徴兵義務は2年間だったが、一定の学歴があれば半年ほど免除され、1年半で済んだ。
 長嶺が大分歩兵第47連隊に入隊したのは、まだ那覇商業に籍を残した20歳の冬だったと思われる。
 入隊後まもない1928年5月、中国山東省で「済南事変」という出来事があり、そこに参加している。当時の長嶺の関心はあくまで唐手で、中国にも参考になる拳法がないかと探し求めたが、収穫はほとんどなかったとされる。実際、戦闘でもそれほど危険な目には遭わなかったようだ。満期除隊したのは1929年の初夏のことだった。
 唐手の師匠である新垣のもとを再訪すると、まもなく稽古が復活した。だがこの年の暮れ、新垣は体調を崩して30歳の若さでこの世を去る。
 新垣は首里の酒屋の長男だったが、家業が傾きはじめ、その上に父親が急逝、長男として重責が重なったところで自らも病を得たのだった。
 就職難のさなか、すでに那覇商業を卒業した身で、長嶺は自分の将来をどうするか悩みながら、稽古に精を出す日々がつづいた。

空手の研究に一生を捧げようと思うなら、まず生活を確保してかかれ。

 新垣のアドバイスが脳裏に遺言のようにこだました。(連載つづく)

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。 『沖縄空手への旅~琉球発祥の伝統武術』(第三文明社)が2020年9月に刊行予定。