連載エッセー「本の楽園」 第96回 ポストヒューマニズムの時代

作家
村上政彦

「人新生」(じんしんせい)とは、地質学的な時代の区分のひとつだが、まだ学問的には正式に認められていないようだ。しかし、このところよく見聞きする言葉だとおもう。ざっくりいうと、人類が地球の環境に影響を与えるようになった時期、ということになるのだろうか。
 僕はこの言葉に、何だか人間の驕りを感じて、あまり好きではなかった。まあ、提唱した人々の意図としては、人間の横暴なふるまいへの警告もあったのだろう。いや、そちらのほうに比重があったのだとおもう。しかし、それにしても――。
 かつて、人間は自然を畏れた。そこには自分たちを生かしてくれる自然への、敬いがあった。ところが、いつからか自然を征服すべき対象と見るようになって、敬いどころか、どれだけ搾り取れるかの算段しかなくなった。
 いま僕らが苦しめられている新型コロナウイルスは、小さな、小さな、眼にも見えない存在だ。しかし、そんな小さなウイルスすらコントロールできない。僕ら人間は、自然の中で、自然とうまく共生していくしかないのだ。
 ただ、多くの人が自分を中心に物事を考えるように、人間は人間を中心に物事を考える。この「人間中心主義」は僕ら人間社会のなかに、抜きがたくある。それが少なからぬ深刻な問題を引き起こしていることは、おそらく多くの人が気づいているところだ。
 この「人間中心主義」をどうするか? きょう紹介する『ポストヒューマニズムの政治』では、ある思想家の議論を参照して、こう語る。

人間以外のモノを人間にとっての道具としてしか見ない「頑なな人間中心主義」から人間以外のモノに内在的価値を認める「弱い人間中心主義」への転換

 人間は、人間以外の何者かになることはできない。すると人間中心主義から脱するのは難しい。そうであるならば、できるだけ毒の弱いほうを選ぶことだ。
 第2章の「動物論的展開の倫理と政治」がおもしろい。21世紀になってジャック・デリダら先鋭な思想家に導かれるかたちで「動物問題」がホットな話題になってきた。
 人間の動物への暴力や人間と動物を区別する考えが、人間社会の暴力や差別とつながっているのではないか?
 彼らは、そんなふうに考えた。アドルノはいう。

アウシュビッツは、誰かが屠畜場を見て、あれは動物にすぎないと考えるところなら、どこでも始まる

 人間がそれ以外の動物にまさる存在である根拠は、言葉と理性を持っていることに求められる。この理屈は、人間社会にも導き入れられると著者はいう。

より理知的な者とより動物的な野蛮な者を区別

し、

前者(すなわち主人)が後者(すなわち奴隷)を支配することが正当化される

原理上、動物に対する種差別主義的な暴力がなくならない限り、それが人間社会内に逆流する危険性は常にあり、人種差別主義的な暴力を廃絶することは困難

 ボノボの研究などから得られた知見によれば――

「動物=利己的ないしは攻撃的」という見方は必ずしも正しくなく、人間を含む動物の中に共感、利他主義、社会的協調性や平和的解決志向性といった特性を見いだすことができる

 これはデカルトが完成させた「魂のない本能に任せた自動機械」という動物観をくつがえす見方だ。ただ、デリダは、動物を人間の中へ包みこんで人間的にあつかうのは、結局、人間中心主義を脱していないと批判する。
 このような種差別主義を克服する手掛かりとして、著者は、ノーベル文学賞の受賞者でもあるクッツェーの小説『動物のいのち』を挙げて、想像力が必要なのではないか? という。

クッツェーは、哲学者ネーゲルの有名な論文「コウモリであるとは、どのようなことか」を引き、「そのような質問に答えを出せるようになる前に、コウモリの感覚様式をとおして、コウモリの生活を経験することができなければならない」というネーゲルの主張は間違っていると批判した上で、「生きているコウモリであるということは、充足した存在であるということです。(略)充足した存在であるということは、肉体の魂が一つになって生きているということです。充足した存在であるという経験のひとつの呼び名は喜びなのです」と記している(Coetzee 1999,52-53)。つまり、我々は哲学者の理性によってコウモリがどのように現実世界を経験しているかを知る由はないが、詩人の共感的想像力によって動物の充足した存在を感じ取ることは可能であると主張する

 デフォーの『ロビンソン・クルーソー』は、

植民地主義の延長線上で、まず動物が殺戮・家畜化され、そして「蛮人(フライデー)」が奴隷化されるといった、種差別主義に貫かれた人類史の過程

だ。クルーソーはいう。

全島の君主である、王であり、支配者であるわたしは、あらゆる臣下に絶対的な支配力を持っていた。わたしは臣下たちを吊るすことも、臓物を抜き去ることも、自由を与え、奪うこともできたし、臣下にはただひとりの謀反人もいなかった

 著者の結論を聴いてみよう。

クルーソーの主権的権力の中核にある人間中心主義(種差別主義)を脱構築していく詩的そして共感的な想像力こそが、動物論的展開をさらに促すものとして、いま必要とされている

 僕は犬を飼っている――この言い方はあらためなければならない。僕は犬と暮らしている。彼は、魂を持っている。

参考文献:
『ポストヒューマニズムの政治』(土佐弘之著/人文書院)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。