詩人・永瀬清子の名を知ったのは、いつのころだったろうか? 詩はときどき眼にしていたが、『短章集』という作品のことは知らなかった。たまたま手に取った若松英輔の著作で、詩を学ぶための必読書として取り上げられていて、読んでみたらおもしろかった。
詩でもない。エッセイでもない。覚書でもない。小説でもない。哲学書でもない。――しかしそのいずれでもある作品だ。
一寸した小話に心ひかれて書きとめる事がある。そしてそれはなぜと云うことまではわからない。ただ私の何かがその話に思いあたるのだ。
中国の古い民話に、泉を愛した娘がいつもそのほとりで水に見入っていたが、やがてある日みまかった。
彼女が音楽を好んでいたことを思って悲しみの父親が泉のほとりで楽を奏すると泉はいつも湧き立つように水を盛り上げた――。
こんな文章にそれこそ「心ひかれて」読んでいく。すると、こんなくだりがある。
私の健康のための人々のさまざまな忠告は、常に私自身の発見と事実とに反していることが多い。たとえば
「安静に」「脂肪をとるな」「塩をとるな」「働くな」。
私自身の生命はつねに私に教えてくれる。
「悩め」「力をつくせ」「戦え」「一歩出ろ」。
また――
詩は
葉緑素が、太陽を捕えるのと同じだ。
こういう言葉は、どこから現れるのか? 「あとがき」で著者は述べている。勤め先へ向かうバスの中で、窓外の並木を眺める。
私は朝の光の中でその緑を、或は黄葉を満喫し、そしてその時、私の書きたいと思う事を心の中でつかむのでした。
でもその間はほんの十分にも足りません。又勤め先へ着けばその事を書きとめる暇もなく仕事につき、それに巻き込まれてしまいます。忘れることをまぬがれたものだけがあとで手帖に言葉として数行生き残るのでした。自然界の厳粛な生存の事象と同じに
つまり、この短章は、どれもが著者の生の篩(ふるい)にかけられ、選び抜かれた言葉たちからなっているのだ。詩人の萩原朔太郎は彼女を励ましたという。
今、詩を書いている人達には抒情があってもThought(注・思い方)がないのです。あなたにはそれがある。あなたはこうしたものをぜひつづけてお書きなさい
それでも、これらの文章は10数年も眠ったままだった。発表の場を与えたのは、詩人・思想家の吉本隆明だった。彼は自分の発行している雑誌『試行』に書いて欲しいと依頼した。
若いころ僕は、『試行』の読者だったから、短章集に触れていたのかも知れない。記憶にないのは、恥ずかしいことである。
永瀬清子は、ハンセン病を患った人々とも関りを持った。その中から生まれた忘れがたい短章を一つ。
――母親のことを云いくらしている癩者に厚い手紙が来た。ばかに厚いなとあけてみたら母が手形と足形を入れていた。そして、
「今年はどうしても面会に行けないので手形と足形を送ります。私はこの足でお前のそばへ行き、この手でお前を撫でているつもりです。だからお母さんの心を汲んでお前も我慢して下さい」――。
この癩者にとってどんな言葉の表現にもまさるその手形と足形。どんな詩人もこの手形足形にまさる作品を書くことはとてもできないだろう。
僕ら表現者は、こんな手形・足形を求めあぐねているのだ。
参考文献:
『短章集 蝶のめいてい/流れる髪』(永瀬清子/思潮社)