連載エッセー「本の楽園」 第93回 宛名のある詩

作家
村上政彦

 第86回で、若松英輔の詩論『詩と出会う 詩と生きる』を取り上げた。今回は、彼が書いた詩を読んでみたい。
 若松は、きちんと詩を読めるようになるには、自分が実作しなければならないという。 上手な詩を書こうとおもわないでいい。そういう気負いを捨ててしまえば、思いのほか気楽に詩を書くことができる――そう読者に呼びかける。
 若松の第三詩集『燃える水滴』が手元にある。ページを繰って読んでみると、実にすらすらと読める。ほとんど引っかかるところがない。これは現在の詩のトレンドである「現代詩」と呼ばれる詩たちとは、対極にあるようにおもえる。
「愛の発見」と題された詩の一部を引いてみる。

 悲しむとは
 ときに
 見過ごしていた
 愛の発見であり

 愛するとは
 ときに
 無尽の悲願を
 生きるに等しい

 愛する人を失ったとき、人はその人への愛に気づくことがある。それまでは、その人が傍にいるのが当然だったので、自分の中の愛に気づかない。気づいたときには、もう、その人はいない。それでも愛は消えない。
 これは、多くの人が経験する感情だ。おそらく共感する読者は少なくない。若松は、あえてそういう人々に向けて、この詩を詠んでいる。宛名のついた詩なのだ。共感した読者は、宛名に自分の名前がしるされていることを知って、自分のために書かれた詩だと受け止める。
 若松の詩は、このとき、自己表現であると同時に、他者の感情をも表現している。本来、表現とはそういうものだが、彼の詩は、その度合いが深い。
 たとえば、「祈る人」という詩。

 孤独にさいなまれ
 誰も
 自分のことを祈ってくれる人などいない

 そう おもったとき
 あなたの知らないところで
 祈る人の姿を
 思い出してください

 これは修道院で日課になっている、聖職者が苦しむ人々のことを祈るさまを詠んだ詩だ。誰かに宛てた詩であると同時に、詩人自身が「孤独にさいなまれ」たときの詩ではないか。
 また、「ひとりの読者」。

 多くの
 文字を刻んでも
 お前に
 届かなければ 何も
 書かなかったことになる

 詩人と読者が、それぞれの悲しみや苦しみを見つめ、自分だけではないのだ、とおもわせてくれる詩――詩を読んでいるとき、読み手と書き手は、悲しみや苦しみを媒介としてつながっている。
 こういう詩を、安易だ、という人がいることも分かる。そういう人は、ほかの詩を書けばいいし、読めばいい。
 あるいは、「詩の歴史」。

 詩人とは
 おのが心を
 表現するだけでなく
 語らざる者たちの声を
 引き受けようと
 試みる者ではないのか

 僕は、いわゆる「現代詩」も読むが、こういう詩が好きだ。

おすすめの本:
『詩集 燃える水滴』(若松英輔/亜紀書房)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。