第86回で、若松英輔の詩論『詩と出会う 詩と生きる』を取り上げた。今回は、彼が書いた詩を読んでみたい。
若松は、きちんと詩を読めるようになるには、自分が実作しなければならないという。 上手な詩を書こうとおもわないでいい。そういう気負いを捨ててしまえば、思いのほか気楽に詩を書くことができる――そう読者に呼びかける。
若松の第三詩集『燃える水滴』が手元にある。ページを繰って読んでみると、実にすらすらと読める。ほとんど引っかかるところがない。これは現在の詩のトレンドである「現代詩」と呼ばれる詩たちとは、対極にあるようにおもえる。
「愛の発見」と題された詩の一部を引いてみる。
悲しむとは
ときに
見過ごしていた
愛の発見であり愛するとは
ときに
無尽の悲願を
生きるに等しい
愛する人を失ったとき、人はその人への愛に気づくことがある。それまでは、その人が傍にいるのが当然だったので、自分の中の愛に気づかない。気づいたときには、もう、その人はいない。それでも愛は消えない。
これは、多くの人が経験する感情だ。おそらく共感する読者は少なくない。若松は、あえてそういう人々に向けて、この詩を詠んでいる。宛名のついた詩なのだ。共感した読者は、宛名に自分の名前がしるされていることを知って、自分のために書かれた詩だと受け止める。
若松の詩は、このとき、自己表現であると同時に、他者の感情をも表現している。本来、表現とはそういうものだが、彼の詩は、その度合いが深い。
たとえば、「祈る人」という詩。
孤独にさいなまれ
誰も
自分のことを祈ってくれる人などいないそう おもったとき
あなたの知らないところで
祈る人の姿を
思い出してください
これは修道院で日課になっている、聖職者が苦しむ人々のことを祈るさまを詠んだ詩だ。誰かに宛てた詩であると同時に、詩人自身が「孤独にさいなまれ」たときの詩ではないか。
また、「ひとりの読者」。
多くの
文字を刻んでも
お前に
届かなければ 何も
書かなかったことになる
詩人と読者が、それぞれの悲しみや苦しみを見つめ、自分だけではないのだ、とおもわせてくれる詩――詩を読んでいるとき、読み手と書き手は、悲しみや苦しみを媒介としてつながっている。
こういう詩を、安易だ、という人がいることも分かる。そういう人は、ほかの詩を書けばいいし、読めばいい。
あるいは、「詩の歴史」。
詩人とは
おのが心を
表現するだけでなく
語らざる者たちの声を
引き受けようと
試みる者ではないのか
僕は、いわゆる「現代詩」も読むが、こういう詩が好きだ。
おすすめの本:
『詩集 燃える水滴』(若松英輔/亜紀書房)