今回の本は、『kaze no tanbun 特別ではない一日』である。キーワードは、「tanbun」だろう。日本語表記にするなら、おそらく「短文」。これを、どのように解釈するかが、まず、ポイントになる。
短い文章――短篇小説、エッセイなど、普通に思い浮かべるのは、そのあたりだろうか。編者は、西崎憲。福岡の出版社・書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)から発刊された文芸誌『たべるのがおそい』の編集長を務めた人物だ。
もともと作曲から出発し、翻訳をするようになり、のちに小説や短歌を書くようになった。『たべるのがおそい』が話題になったのは、掲載作から芥川賞の候補作が選ばれたことが大きい。
僕もこれまで5回の候補になったが、だいたい候補作が選ばれるのは、大手の出版社が出している文芸誌に限られているといっていい。もちろん例外はあるが、極めて少ない。そのうちのひとつが、『たべるのがおそい』という文芸誌だった。
いまは休刊となっているが、いい文芸誌だったとおもう。大手の出版社に伍して、文学の未来を開きつつあった。その編集長が企画したのが、「kaze no tanbun」である。これは、文学好きなら手が伸びる。そうして、僕は買ってしまった。
17人の執筆者のラインナップを見ると、いずれも若手の実力のある書き手だ。彼らが、まず、「tanbun」をどう解釈するのか。そのあたりから、この本を読む愉しみは始まる。
「短文性について」というタイトルの作品が、Ⅰ、Ⅱとある。Ⅰは掌編小説、あるいは散文詩だし、Ⅱはエッセイだ。
読み進めていくと、短篇小説が多い。僕の好きなジャンルなので、うれしい。岸本佐知子の「年金生活」がおもしろかった。語り手の「私」は、夫と2人暮らしの高齢者。90歳は過ぎているらしい。
近未来を設定しているようで、役所は機能を停止し、電話は通じない。郵便局にも人はいない。本来ならとうに年金をもらっているはずなのだが、だんだん先延ばしにされ、とうとう通知さえ来なくなった。
夫婦は、庭の畑で1日を過ごし、収穫した作物を食料にしている。かつては動物に荒らされたものだが、いまとなっては、鳩もカラスも、犬も猫も、まったく姿を現さなくなった。
昼下がりのピクニックがささやかな愉しみだ。近くにある丘の上から景色を眺めると、なかば蔦におおわれた東京タワーも、富士山も見える。10年前に石油の供給がとだえて、空気がきれいになったからだ。
ある日、突然に「年金を給付する」と政府の発表があった。しかしTVは映らないし、新聞はとうになくなっている。町内会の掲示板に1枚の貼り紙があったのだ。数日後、郵便受けに小さな箱が届いた。
手のひらにのるほどの粗悪なボール紙製で、フタに〈日本国〉とかすれた朱色のハンコが押してある。中には濃いオレンジ色の、干からびた海綿みたいなものが一かけら入っていた。
翌日、オレンジ色の物体は、テーブルをおおいつくすほどに広がっている。
表面がつやつやして、さざ波のようなウロコ状になっている。
腹が減ってきたので、恐る恐る食べてみたら、なんと、肉の味がする。夫婦は久し振りに肉で満腹になった。「ねんきん」は食べても減らない。増えていく。さらに切り方や調理法を変えると、味が変わる。
麺、野菜、鶏肉、豚肉、アジ、秋刀魚、マグロ
さらに、「ねんきん」は、壊れたものを修復してくれる。
茶碗、眼鏡、万年筆、下着、傘、しゃもじ、コップ、ブラシ、腕時計、スコップ、窓ガラス
やがて「ねんきん」は夫婦が欲しがっているものを察して姿を変えた。
せっけん。靴。歯ブラシ。乾電池。ウイスキー。バナナ。コーヒー豆。ウクレレ
そして、「ねんきん」は、「私」が手術で失った乳房さえ復元したかとおもうと、ある日、
大学生のときにスキーバスの事故で死んでしまった、私たちの一人娘
の姿を模倣し始める。それはだんだん育っていく。
老夫婦の生活に希望がともり、自分たちの始末をするための
戸棚の奥の農薬をそっと捨てた。
この短篇小説を1作読んだだけで、本を買ってよかったとおもった。最後に西崎憲の作品が収録されている。読みようによっては、これが彼の「tanbun」の定義なのかも知れないとおもう。
もっとも執筆者への依頼メールには、こうある。
小説でもエッセイでも詩でもない、ただ短い文。しかし広い文
次も買いだ。
おすすめの本:
『kaze no tanbun 特別ではない一日』(西崎憲編/柏書房)