僕は、生きるために書いている。この書くには、稼ぐという極めて実利的な要素が含まれている。しかし、では、稼げれば書かないでいられるか、というと、そうはいかない。書かずにはいられないのである。
だから、僕の、生きるために書く、ことには、書くために生きる、ことが内包されている。でも、考えてみれば、生きるために書くことと、書くために生きることを分離するのは難しい。
ある作家が、なぜ書くか? と訊かれて、(多分)ジョークをまじえて、「銀座にベンツ、軽井沢」といった。誰だったか忘れてしまったが、エンターテインメント系の作家だったとおもう。
推測するに、この作家だって、たくさんある仕事のなかから、書くことを選んだわけで、稼ぎのいいことをいちばんに挙げても、やはり、彼の仕事には、書くために生きる、ということが含まれている。
多かれ少なかれ、小説家や詩人、批評家などは、生きるために書いているが、書くために生きているのでもある。近年になって書くことで稼ぐのが難しくなってきて、いよいよその傾向が強くなりつつある。
それでも僕は、生きるために書いている、という。『掃除婦のための手引き書』を書いたルシア・ベルリンも、生きるために書いた人だとおもう。
1936年、アラスカ生まれ。祖父は酒浸りの歯科医。母も叔父もアルコール依存症で、大学生のときに結婚して2児をもうけて離婚。3度目の結婚で、また2児をもうけて、夫の薬物中毒などが原因で離婚。
その後、女手一つで4人の子どもを育てるため、高校教師、掃除婦、電話交換手、ER(救急救命室)の看護師などを転々とし、みずからもアルコール依存症に苦しむ。小説を書き始めたのは20代のころからで、24歳で第一作を発表した。
アルコール依存症を克服してからは、刑務所で創作を教え、やがて大学の客員教授となる。 やがて子どものころに患った脊柱側彎症の後遺症から酸素ボンベが手放さなくなり、68歳で亡くなった。
ルシアの書く作品は、どれも短篇だ。めまぐるしい生涯の変転を見ると、腰を据えて長篇に取り組むのは難しかっただろう。大学で教えるようになってからは生活も安定しただろうが、おそらくそのころには短篇作家としての体質になっていたのだ。
家族に訊くと、彼女の作品は、ほとんど事実を核にしているようだ。それを少し脚色して発表する。文章はきびきびしている。テンポもいい。そして、読ませる。ごく短い掌編『わたしの騎手(ジョッキー)』は、こんなふうに始まる。
緊急救命室の仕事をわたしは気に入っている。なんといっても男に会える。本物の男、ヒーローたちだ。消防士に騎手(ジョッキー)。どっちも緊急救命室の常連だ。
語り手の「わたし」は骨折した騎手の担当をする。気を失って眠っている彼の服を脱がせにかかると、「ママチータ! ママチータ!」と母を呼び始めた。レントゲン室に連れて行かねばならないが、ストレッチャーに乗ろうとしないので、「わたし」が子どものように抱いて行く。彼の涙で「わたし」の胸が濡れる。レントゲン技師が来るまで、「どうどう、いい子ね」と宥める。騎手は仔馬のように背中を細かく痙攣させた。
わずか2ページの作品だが、よくできたスノードームのように、このなかに小宇宙がある。これだけの短さで読者を満足させる腕は、なかなかである。
ほかにも、掃除婦が主人公になった作品、アルコール依存症の患者たちが集うリハビリテーションセンターを舞台にした作品、刑務所の創作教室を描いた作品など、リアルな短篇が並ぶ。どの短篇にも、詩がある。
ルシアは、さまざまな障害に遭うたび、書いてやる、とおもったのではないか。それが自分の生涯にどのような意味を持っているのか分からないが、とにかく書くことで消化する。
こんな一節がある。
結婚とはいったい何なのだろう。いくら考えてもわからない。そしていま、死もわたしにはわからないものになった。
小説家は、分からないから書くのだ。書くことによって、ひとまず消化する。そして、その意味を考える。それでも分からないことがある。それは、それで構わない。小説は分からなくても成立する。
ルシアは、生きるために書いた。分からないことを書いた。本物の小説家だとおもう。
参考文献:
『掃除婦のための手引き書』(ルシア・ベルリン著/岸本佐知子訳/講談社)