平和を希求する沖縄の地からみた、政治と平和。
尖閣問題と政治的パフォーマンス
今の日本の情勢は非常に危険であると思います。まるで中国や韓国と、再び戦争をやろうとしているかのように見受けられます。「右寄り」の雑誌の論調を見ると、その中身は戦前よりもひどい。韓国や中国に対して攻撃的な差別観をもったり、敵視したりするべきではありません。
沖縄と中国は、非常に長い期間にわたって友好関係を築いてきました。進貢貿易(琉球と中国との貿易)は1372年から始まり、沖縄は1392年から中国へ留学生を送っています。
八重山列島の漁民は、中国や台湾の漁民と古くから親しくしてきました。八重山の漁民が安心して漁業を営むためには、アジアの人々と友好的な漁業協定を結ぶ道が賢明な選択だったわけです。
軍隊と武力によって問題を解決する発想は、沖縄の人たちにはもともとありません。600年以上にもわたって親しい関係を保ってきたにもかかわらず、あちこちの雑誌が「沖縄は中国に併合される」などという論陣を張っている。歴史を無視したとんでもない暴論です。
1990年に沖縄県知事に就任した私は、県政のスローガンとして「平和・自立・共生」の3つを掲げました。「平和」と「自立」は国内向けのスローガン、「共生」とは対外的なテーマです。
沖縄には「ゆいまーる」「もあい」とよばれる相互扶助の習慣があります。繁忙期に力を貸し合って仕事を進めたり、お金が必要な人にみんなでまとまった金額を渡したりします。「共生」という概念を伝統的にもつ沖縄の人々は、近隣諸国とも仲よくつきあおうと考えてきました。
ところが昨今、一部政治家の暴走によって日中関係が悪化しています。国会議員や東京都議会議員が尖閣諸島に上陸し、「慰霊祭」の名を借りた政治的パフォーマンスを行いました。無人島である尖閣諸島に上陸して「ここは日本固有の領土だ」と旗を振る。こんなバカな話はありません。
日本固有の領土について真剣に考えるのならば、なぜ駐留米軍がいる嘉手納(かでな)基地に足を運び「日本固有の領土が侵害されている」と抗議しないのでしょう。「尖閣諸島に自衛隊の船を出して対応するべきだ」と言う人もいますが、そんな必要はありません。近隣諸国と漁業協定を結び、友好的につきあう。これが沖縄流の、最も平和的なやり方なのです。
勇ましいことを言う人間は信用ならない
尖閣問題などについて勇ましいことを言っている人が多いようですが、私はそのような人間を、自分自身の体験に照らしてまったく信用していません。
第2次大戦が始まる前、県知事をはじめとして、沖縄県庁の課長以上の幹部のほとんどは本土からきた人間で占められていました。そして沖縄の「皇民化教育」は遅れているなどと言って絶えず怒っていたのです。
そんななか、1944(昭和19)年10月10日、たった1日の那覇大空襲によって那覇市の90%が焼き払われてしまいました。県庁は焼け残りましたので、職員は必死に市民の救済にあたりました。しかし本土からやってきていた県知事は恐れをなして、那覇から逃げてしまいました。現在の普天間飛行場の近くにある自然壕(ガマ)にこもって戻ろうとしない。さらに、その近くに臨時の県庁を置いたものですから、職員は決裁をもらうために10キロ以上の道のりを歩かなければならなくなってしまいました。ほかにも、内政部長や経済部長など、本土からやってきた幹部連中は、口実を設けては次々と本土に逃げ帰ってしまいました。
私が通っていた沖縄師範学校の校長は非常に厳しい人物で、生徒の私語を見つけると木の棒で殴りつけたものです。しかし、米軍の沖縄上陸が迫ると、威張り散らしていたこの校長は鹿児島へ逃げ帰ってしまいました。
1945(昭和20)年4月1日に米軍が嘉手納・読谷(よみたん)海岸から上陸する様子は、首里城(しゅりじょう)の物見台からよく見えました。首里の軍司令部のお偉方は、私たち学徒兵と一緒に米軍の上陸を眺めていました。それまではよく外に出てきて私たちを指導していた彼らは、米軍上陸後は壕の奥に引っこんだまま、1歩も外に出てこなくなってしまったのです。
日ごろ勇ましいことを言っている人間は、いざというときに逃げたり隠れたりするものです。大物たちは、いざというときに前線に立とうとしない。そういう現実を、沖縄戦の渦中で私はさんざん目にしてきました。
日本人同士が殺し合う沖縄戦の悲惨
中国と戦争をやりたがっている人たちは、沖縄戦がいかに悲惨で残酷だったかを知らなければなりません。
壕の中で赤ちゃんが泣いていると、友軍であるはずの日本兵は、敵に見つかるのを恐れ、母親に「殺せ」と命じます。当然そんなことはできずにいたら、母親の目の前で赤ちゃんを絞め殺してしまいました。摩文仁(まぶに)の海岸で雑嚢(布でできた袋)を担いだ兵隊が歩いていると、手榴弾を投げて殺し、雑嚢に入っている食糧を自分のものにしてしまいます。ほかの兵隊に米を奪われないように、手榴弾のピンに手をかけたまま、いつでも放れる状態で飯盒を守っている者もいました。
地上戦が始まると、米兵は摩文仁の丘にテントを張っていたものです。飢えた日本兵や住民が海岸で潮干狩りをやっていると、上半身裸の米兵が機関銃を構え、丘の上から狙い撃ちして片っ端から殺します。まるでスポーツを楽しむかのようでした。
私自身、米兵から狙い撃ちされて殺されかけたことがあります。同期生と一緒に米俵を担ぎ、摩文仁を歩いて司令官のもとへ運ぶ途中のことです。私たちは突然、自動小銃で狙撃されてあわてて米俵を放り出し、恐ろしい思いで隠れていました。
もし生き延びることができたならば、戦争が起きた理由をはっきりさせよう。指導者が指示するとおりに行動してきたのに、なぜこんな悲惨な目に遭わなければならないのか。戦争は絶対にやってはいけないと強く思いました。人々が2度とあんな悲惨な思いをしないためにも、政治家は「平和・自立・共生」の道を選ぶべきなのです。
「構造的暴力」と「積極的平和」
沖縄の創価学会の皆さんは、誰よりも熱心に平和運動に取り組んできました。77年には、核ミサイル基地の跡地に沖縄研修道場を建設しています。また池田名誉会長の提案により、敷地内に残っていた核ミサイルの発射台は「世界平和の碑」として残されました(84年)。私も何度もここに出かけ、一緒になって平和運動に取り組んできました。
宗教心にあつい創価学会の人々が平和運動に取り組むことは、いちばん強いし力があります。
池田名誉会長と対談集『平和への選択』を発刊したヨハン・ガルトゥング博士(平和学者)は、戦争を「直接的暴力」と規定しています。他国の人を偏見や差別の目で見ることや、男女差別や所得格差については「構造的暴力」と名づけました。「構造的暴力をなくすことこそが、積極的平和をつくるための道だ」とガルトゥング博士は説いているのです。
沖縄は本土から構造的に差別されています。衆参合わせて722人の国会議員のうち、沖縄選出はたった8人しかいません。この8人が声を大にして訴えても、圧倒的多数を占めるほかの国会議員は、沖縄問題を自分の問題として考えてくれないのです。沖縄の問題を対岸の火事のように考え、真剣に取り組もうとしない。多数決である民主主義の名のもとにおいて、沖縄は本土から構造的差別を受けているのです。
ガルトゥング博士が言う「積極的平和」をつくるためには、本土による沖縄への構造的差別を壊していかなければなりません。昨今の日本政治は、ますます右傾化の度を強めています。沖縄への構造的差別をなくすどころか、下手をすると憲法改悪と集団的自衛権の行使、徴兵制導入や核兵器保持にまで突き進んでしまいかねません。そうしないためにも、今こそ平和勢力が踏ん張るべきときなのです。
日本の政党のうち、本気で平和運動に取り組んできたのは公明党です。支持団体である創価学会は、SGI(創価学会インタナショナル)として世界192ヵ国・地域に広がり、中国とも非常に良好な関係を築いてきました。公明党と創価学会は、今こそ力を入れて平和運動に取り組んでいただきたい。具体的に行動してほしい。今頑張らなければ、構造的差別を受ける沖縄を救いようがありません。皆さんの力により、沖縄から平和を広げていただきたいと期待します。
<月刊誌『第三文明』2013年1月号より転載>