人々を「当事者化」していくソーシャルメディア

作家・ジャーナリスト
佐々木俊尚

誰もが参加でき、自由に発言できるソーシャルメディア。それはある意味、みなを「当事者」にしていく装置である――。発信者の「立ち位置」がより厳しく問われるこれからのメディア言論について、ジャーナリストの佐々木俊尚さんに聞いた。

ソーシャルメディアでの発言は、マスコミの劣化コピーにすぎない

――佐々木さんの新著『「当事者」の時代』のなかで、ソーシャルメディアは、その社会の集合的無意識の反映でもあると書かれています。日本のいまを、どうご覧になっていますか。

佐々木 ツイッターやフェイスブックに代表されるソーシャルメディアが出てきて、「マスメディアは終わり、これからはソーシャルメディアの時代だ」と楽観的に言う人が多いですよね。
 しかし、この一年のソーシャルメディア上での言論を見ていると、そんなふうに楽観的に見ることはできません。
 マスメディアの縮小再生産、劣化コピーでしかないのではないか、というのが僕の見方です。「マスゴミ(=マスコミを批判的に言うネット用語)」と言って批判している人が、当のマスコミと同じ論理構造でものごとを語っている。

――その構造というのが、本のなかで示された「マイノリティ憑依」ですね。

佐々木 典型的には、原発再稼働容認派に対して、「被災者の目の前で言えますか」と議論をシャットアウトしたり、福島の母子の立場を勝手に代弁するような言論です。
 1970年代以降、マスコミでは、弱者(マイノリティー)に対する批判は、長らくタブー視されていました。
 逆に言われていたのは、「弱者に光を当てよ」です。それ自体はよいことかもしれませんが、それがエスカレートすると、弱者・少数者をむりやり見つけ出し、お涙ちょうだいの「見世物」にしてしまうといった安易なエンターテインメントに堕してしまう恐れがあります。
 また、弱者に「憑依」することで自らの意見を絶対的なものにできます。そうして社会を高みから断罪するといった悪弊にも陥りやすい。だれしもが、弱者に成り代わって社会の悪口を言いがちです。それはみなが無意識に行っていることなのです。

発言者の立ち位置が問われる時代

――メディアが新しくなっても、メディアを使う人間の側が変わらなければ、何も変わらないということなのですね。

佐々木 そうですね。ただ『「当事者」の時代』では、この先にどういう可能性があるのか、当事者のメディアとはどういうものかといったことは何も書いていません。
 そういう意味では、過去の構造を清算するだけのかなり後ろ向きな本だとも言えます。
 でも、ブログやツイッターに出ているいろんな感想を見ると、「答えを書いていないことに、より意味がある」と感じている人が多くいて、届く人には届いたのかなという印象です。
 いまの日本社会は、震災がれきの受け入れにしても、放射性物質の影響にしても、全然意見が食い違っていて、お互いがまったく相いれないという分断された言論状況にあります。
 そこでは、もはや「我々」という言い方が成り立ちません。戦後初めてといった分断のなかで、どういう立ち位置で発言しているのかということが厳しく問われる状況になっています。

――ソーシャルメディア自体が、そうした立ち位置を発信者に求める性質を持っているということでしょうか。

佐々木 そうですね。そもそもソーシャルメディアの登場以前は、普通の人が自分の意見などを発信すること自体が難しかった。
 また、いままではメディアで書かれたことに対し批判するのも、僕みたいなジャーナリストや作家、評論家といった人間、メディアのなかの人だけという構造がありました。
 でもいまは「常に批判にさらされる」という状況が出てきています。これはソーシャルメディア時代ならではのものです。みなすぐに情報を知りたがるし、見たがる。そして実際ほしい情報にすぐアクセスできるからです。
 第三者的な立ち位置、言ってみれば〝神の視点〟でものを語るというのは、評論家がよくやることです。「日本はだめだ」とか、「社会はたいへんなことになっている」といった類いの言論です。
 そういうことは簡単に言えますが、「じゃあお前はどうなんだ」というつっこみがすぐに飛んでくる。これがソーシャルメディア時代の決定的な特徴です。そうした批判に耐えられない人は退場するしかありません。

――発信が容易であるがゆえに、批判の声も集まりやすい。

佐々木 僕はずっと新聞社で仕事をしていて、どちらかというと「客観的中立報道主義」に基づいて評論家的立ち位置で書いていました。でも2003年に記者を辞めてフリーになって、ブログなどで情報を発信しはじめると、ものすごい批判にさらされたんです。当時は、正直言って不快でした(笑)。
 でも「素人にそんな批判をされる筋合いはない」というよくある反論は僕はしなかった。それは、「読者は大事」と言いながら、そう言ってしまえるのは、自分たちを上の立場において見下していることになるからです。
 実際のところマスコミの記者は、報道のプロでしかありません。放射線の専門家でもないし、原子力の専門家でもない。記者が気軽に書いた原稿が、専門家からすぐに批判されるという状況は次々に起きています。
 そうしたことが見えてきたのが、2005年のライブドア事件です。弁護士や公認会計士といった人たちが、マスコミ報道に対して「内容がひどすぎる」とネット上で問題点を指摘するようになりました。
 書き手がプロかアマチュアかにかかわらず、寄せられた批判なり反論なりに対して、「引き受ける」態度が必要な時代になっています。僕は、こうした問題意識のもと、自分のジャーナリストとしての立ち位置を再構築する模索を、この10年続けてきました。

――情報の受け手側からすると、何が正しいのかわからないカオス(混沌)な状態になった戸惑いもあると思うのですが。

佐々木 そうかもしれません。でもだからといって、間違った意見や、声の大きな意見をそのまま聞けばよいというわけではないですよね。
 放射能汚染の問題でも、声の大きな人が間違った意見を言っていたりします。でもどれが真実かわからない、そうしたカオスを引き受けて、自分で判断しなくてはいけません。

コミュニケーション能力による格差社会の到来

――「当事者」の例として、新宿バス放火事件で妹が中にいることを知らずにスクープ写真を撮ったカメラマンや、自らも被災しながらも報道をつづけた河北新報の記者たちが著書の中で挙げられていました。

佐々木 「当事者」になるとはどういうことか、本の中では、あえて線引きをしないで書きました。
 森達也さん(映画監督/ドキュメンタリー作家)が書いていたことですが、死刑制度に反対だと言うと、必ず「被害者遺族の気持ちがわかるのか」という批判を受ける。たしかに被害者遺族の気持ちを考えることも大切だけれども、もっと大切なのは、被害者遺族の気持ちには永久になれないことを知ることである。その遠さを知ることが大事だ、というのですね。
 当事者になるというのは、弱者と自分との距離を知る、意識するということなのです。もちろん、それを常に認識し続けることは極めて困難な道です。

――とても当事者にはなれない、そういう思いにかられてしまいます。

佐々木 だいたいこういう評論本などではよく「日本人はいまこそ目覚めるべきだ」的な結論になりがちですが、そうした結論には、僕はしたくありませんでした。そう言ったとして変わったためしがありませんし、そう簡単なことではありません。
 僕は、それは「できる人だけができる、できない人はできない」「できる人だけでやっていくしかない」という気がしています。

――当事者を引き受け、行動しようというときには何が求められるのでしようか。

佐々木 メディア空間のなかで、他者との関係をどう構築するか。ソーシャルメディアはその関係性を可視化することが容易なメディアです。
 メディア空間のなかでの自分の立ち位置を把握したり、発信したりするコミュニケーション能力が求められる。
 コミュニケーション能力が低いと、可視化することもできないし、発信しても受け取ってもらえない。コミュニケーション能力がなければ、メディア空間における自分の立ち位置も把握できません。
 つまり「当事者の時代」とは、そういった新たな格差社会の幕開けでもある、そうした側面を持っているのです。

<月刊誌『第三文明』2012年6月号より転載>


ささき・としなお●1961年、兵庫県生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。88年に毎日新聞社に入社。警視庁捜査一課、遊軍などを担当し、殺人や誘拐、海外テロ、オウム真理教事件などを取材する。99年に月刊アスキー編集部に移籍。2003年からフリージャーナリスト。総務省情報通信白書編集委員。『キュレーションの時代』(ちくま新書)、『電子書籍の衝撃』(ディスカヴァー携書)、『2011年 新聞・テレビ消滅』(文春新書)など著書多数。佐々木俊尚公式サイト