コラム」カテゴリーアーカイブ

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第43回 正修止観章③

 前回示した、十境十乗観法の説かれる「2.8. 依章解釈」までの科文を再び示す。

1.  結前生後し、人・法の得失を明かす
1.1. 得を明かす
1.2. 失を明かす
2.  広く解す
2.1. 開章
2.2. 生起を明かす
2.3. 位を判ず
2.4. 隠顕を判ず
2.5. 遠近を判ず
2.6. 互発を明かす
2.7. 章安尊者の私料簡
2.8. 依章解釈

 
 前回は「1. 結前生後し、人・法の得失を明かす」の段を説明したので、今回は、「広く解す」の段を説明する。 続きを読む

本の楽園 第182回 河井寛次郎の残した言葉

作家
村上政彦

 民藝を知ったのは、普通の小説を書き始めてからだったとおもう。若いころの僕は古美術の類にほとんど興味がないので、その方面にはうとかった。同時代のアートには、大いに関心を持っていた。僕の10代のころのアイドルは、マルセル・デュシャンだった。
 デュシャン以降のアートについても、アメリカのポップアート、ヨーロッパのアバンギャルドと、広く目配りをしていた。僕は、小説を書いていたが、ジャンルは違っても、同時代の表現者たちが、どのような仕事をしているのかは、知っておかなければならいとおもったし、実際に刺激も受けた。
 だから、いちばん最初に仕上がった小説は、大判の写真を額装にして、詩のような文章がついていた。つてを頼ってある雑誌の編集者に見せたところ、時代から一歩踏み出すと、人はついて来られない、踏み出すのは半歩ぐらいで、ちょうどいいのだ、といわれた。
 確かに、この小説は誰にも認められなかった。でも、僕自身は満足だった。新しい小説を書いたと胸を張っていた。一歩どころか、二歩も、三歩も、踏み出してやる、と意気込んでみせた。
 僕は、自分なりの文学理論を構築して、それに基づいて作品作りをしたのだ。けれど、その編集者は苦笑いして、それもたいしたものではないよ、といった。僕はジェームズ・ジョイスが、家族の臨終の際、祈ってくれ、と願われて、無神論者だからできない、と拒んだ例を挙げた。
 それなら好きにすればいいのでは、と返されて、僕は彼に礼をいって去った。本当はさびしかった。理解者がいないのは辛い。ひとりでもいいから、おもしろい、といってくれる人がいれば、僕はどんどん新しい小説を書き続けただろう。 続きを読む

芥川賞を読む 第37回 『グランドフィナーレ』阿部和重

文筆家
水上修一

冷静な文体で小児性愛を描く不気味さ

阿部和重(あべ・かずしげ)著/第132回芥川賞受賞作(2004年下半期)

肩透かしのような感覚

 阿部和重は、平成16年に芥川賞を受賞するまで、群像新人文学賞、野間文芸新人賞、伊藤整文学賞、毎日出版文学賞を受賞しており、芥川賞候補にも三回あがっている。芥川賞受賞は、平成6年に初めて群像新人文学賞を受賞してから10年後になるので、満を持しての受賞ということだろう。
「グランドフィナーレ」の主人公の「わたし」は、小児性愛者の男性。自分の娘を含む幼女たちの膨大な量のいかがわしい写真が妻に発覚したことから、家庭は崩壊。法的に娘に面接することもできなくなった葛藤を丹念に描いている舞台は東京、そして人生から脱落して新しい道を歩み始めるきっかけを模索する舞台が東北の田舎町だ。田舎町を舞台とする後半の展開は、再生の兆しも見えるのだが、「わたし」の前に現れた美しい2人の少女との出会いから別の展開が見えてくる。 続きを読む

特別展「本阿弥光悦の大宇宙」を振り返って

美術史家/美術ライター
高橋伸城

多彩な美術品が一堂に

 本阿弥光悦という人がいた。
 16世紀の半ば過ぎに生まれ、17世紀の半ば近くに死んだ。
 戦国の世に始まり、織田信長と豊臣秀吉の台頭、徳川家による政権の確立と、時代はめまぐるしく変わった。

 光悦は生前から能書として知られていた。現存する書状などから、陶器や漆器の制作にも関わっていたことが分かっている。

 京都を拠点とする本阿弥家は、遅くとも室町時代より刀剣の鑑定、磨き、拭いなどを家職とし、歴代の為政者をはじめ名だたる武家に仕えた。
 彼ら一族は、日蓮の教えを信奉する法華衆(法華宗)でもあった。「法華衆(法華宗)」の名称は、日蓮が法華経を根幹の経典としたことによる。

 2024年1月から3月初旬にかけて、上野の東京国立博物館で特別展「本阿弥光悦の大宇宙」が開催された。
 国宝に指定される漆器の「舟橋蒔絵硯箱」、重要文化財に指定される「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(以下「鶴下絵」)や茶碗の「時雨」など、実にさまざまな美術品が光悦の作として一堂に会した。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第42回 正修止観章②

[2]「1. 結前生後し、人・法の得失を明かす」②

(2)失を明かす

 この段落では、正しい修行ではなく、誤ったあり方を詳しく描写し、厳しい批判を加えている。まず、

 其れ癡鈍なる者は、毒気(どっけ)深く入りて、本心を失うが故なり。既に其れ信ぜざれば、則ち手に入らず、聞法の鉤(かぎ)無きが故に、聴けども解すること能わず、智慧の眼に乏しければ、真偽を別かたず、身を挙げて痺癩(ひらい)し、歩みを動かすも前(すす)まず、覚らず知らず、大罪の聚(あつ)まれる人なり。何ぞ労して為めに説かん。設(も)し世を厭う者は、下劣の乗を翫(もてあそ)ばば、枝葉に攀附(はんぷ)し、狗(いぬ)の作務(さむ)に狎(な)れ、獼猴(みこう)を敬いて帝釈と為し、瓦礫(がりゃく)は是れ明珠(みょうじゅ)なりと宗(たっと)ぶ。此の黒闇暗 の人に、豈に道を論ず可けん。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、512-514頁)

とある。愚かな者は、毒気が深く体内に入って本心を失う(『法華経』如来寿量品に出る)から愚かなのである。その人が信じない以上、手に入れることができず、法を聞く鉤(悪を制圧するもの)がないから、聞いても理解することができず、智慧の眼が乏しいから、真偽を区別できず、全身がしびれているから、歩みを進めようとしても進めないとされる。このような人は何も知覚せず、大罪が積もった人であるので、苦労して説く必要はないとされる。 続きを読む