『東京藝大物語』
茂木健一郎 著
講談社
定価1700円+税 Amazonで購入
うどん屋になろうと思っている人とうどん屋とではどちらがよりうどん屋か。というと、そりゃ当然、うどん屋の方がうどん屋でしょう、と思う。けれども、うどん屋になろうと思っている人とうどん屋とではどちらがよりうどんを追求しているか。といえば、いや、もしかしたらうどん屋になろうとしている人の方がよりうどんを追求しているかも知れない、と思うのはこの小説を読んだからで、この小説に描かれる芸術を志す学生たちの、なにかをつかもうとして懸命な姿はそれ自体に尊さを内包しているように思った。
どういうことかというと、うどん屋になってしまえば、それが、屋、である以上、とりあえずみんなをハッピーにするよいうどんを作らなければならない。けれども、これから作るのであれば、いったいぜんたい自分はどんなうどんを作りたいのか、ということを考えなければならないし、どんなうどんを作れば世の中に認めて貰えるのか、ということも考えなければならず、それを突き詰めていくと、果たして自分にとってうどんとはなにか、という問いに逢着するが、その問いは、うどんを作るに当たって必ず必要な問いで、それを問い続けることはきっと尊いということである。
けれどもそんなことばかり考えていたらいつまで経ってもうどんはできない。同世代の人が画期的なうどんを作り、うどん屋としてもて囃される姿を眩しく見上げつつ、薄暗いアパートでぱっとしない刻みうどんを作り続けるのは苦しいこと。
なので作者はこれを残酷な物語として書くこともできたはず。けれども作品には芸術に触れる喜び、生きる喜びのようなものが通底してある。作者の人柄や考えがそこにあらわれてあるということだろう。
なにかになってしまった後の物語はおもしろくない。なにかになろうとしてなる物語はまあまあおもしろい。けれども、なにかになろうとしていてこれからなるかもしれない物語がとてもおもしろい。そんなことを、ルルル、思った。(小説家・町田康)