グアムの「小さな会議」
SGI(創価学会インタナショナル)が結成されたのは、1975年1月26日のことである。
結成の地となったのは太平洋に浮かぶグアム島。51ヵ国の代表が集っての第1回世界平和会議においてであった。
グアム島は太平洋戦争の激戦地でもあり、米兵およそ1400人、日本兵およそ2万人が命を落としている。その小さな島から、池田大作・創価学会第3代会長(当時)は世界平和への新たな「民衆による潮流」を起こそうとしていた。
代表たちが名前と国籍を記した記念の署名簿。池田会長は、自らの国籍欄に「世界」と記した。
席上、全員の総意でSGI会長に就任した池田会長は、こう語った。
この会議は、小さな会議かもしれない。また各国の名もない民衆の集まりかもしれない。しかし、幾百年後には、この会合が歴史に燦然と輝き、皆さんの名前は、仏法流布の歴史に、厳然と刻まれていくことを確信します。
本年(2020年)は、それから45周年。
今や「創価の連帯」は国連加盟国数にほぼ匹敵する192ヵ国・地域に広がっている。ヨーロッパでもすでに創価学会が最大の仏教教団であり、イタリア創価学会は国家との間でインテーサ(宗教協約)を締結した12宗派のうちの1つである。
2017年にノーベル平和賞を受賞したICANは、2007年の創設以来、SGIを国際パートナーにしてきた(関連記事リンク)。
「全人類のための世界的発言」
ローマクラブの創設者であり初代会長だったアウレリオ・ペッチェイ博士は、SGIが結成された世界平和会議に寄せたメッセージのなかで、
平和は「全人類のための世界的発言、誠意」に基づく
と呼びかけた。
ローマクラブは1972年に『成長の限界』と題する報告書を国際社会に発表し、今日のSDGsを先取りする形で人類と地球の未来に強い警告を発している。石油危機が世界を震撼させたのは、翌73年だった。
また、サイゴンが陥落してベトナム戦争が終結するのは1975年4月30日であり、SGI結成時は最終局面とはいえ、まだ戦争が続いていた。
ペッチェイ博士の眼に映っていたのは、「全人類のための世界的発言、誠意」を形成していく世界市民の連帯としてのSGIだったのだろう。
75年5月、池田会長がパリに赴いた際、ペッチェイ博士はイタリアから自分で車を運転してパリまで会長を訪ね、初会談している。
会長にペッチェイ博士を紹介したのは、歴史家アーノルド・トインビー博士であった。
仏法の叡智を人類の共有財産へ
ここで、SGI結成に至るまでの池田会長の歩みを振り返っておきたい。
池田会長が32歳の若さで創価学会の第3代会長に就任したのは1960年。
そこから10年で、学会を750万世帯の日本最大の民衆運動に発展させた会長は、その間に東洋哲学研究所、民主音楽協会、公明党、創価学園を創立。聖教新聞も日本有数の日刊紙となり、70年には信濃町に7階建ての新・本社屋が落成した。
71年には八王子に創価大学が開学。72年には正本堂も大石寺に竣工し、恩師である戸田城聖・第2代会長から託された事業を成就していったのである。
揺るぎない民衆勢力としての創価学会の基盤を固めた池田会長は、ここから新たな次元へと挑戦を開始する。
それは「世界との対話」であり、人類が共有できる「世界宗教」への離陸である。
ヨーロッパ統合の父として知られるクーデンホーフ・カレルギー伯との間で終えていた5回の対談が、72年に対談集『文明 西と東』として出版された。
72年と73年のそれぞれ5月には、トインビー博士と計10日間の対談を重ね、これは75年に『21世紀への対話』(邦題)として文藝春秋から刊行されている。
73年元旦、学会本部での勤行会であいさつした会長は、
生命の尊厳や慈悲など、仏法の哲理を根底とした社会建設の時代
創価学会に脈打つ仏法の叡智を社会に開き、人類の共有財産としていく時代の到来
と述べている。
今日の世界宗教としての創価学会の姿が、すでに会長の脳裏には鮮明に描かれていた。
創価学会青年部が会長の提案を受けて、「核兵器廃絶」への1000万人の署名運動を決定したのもこの年だ。
同年9月には、東宝とシナノ企画が共同制作した映画『人間革命』が封切られた。『生命を語る』『私の釈尊観』のフランス語版も、同年に出版されている。
74年になると、会長の世界との対話はさらに加速する。5月にはフランスの知性アンドレ・マルロー氏と会談し、その11日後、中国を初訪問して李先念副総理と会見した。
9月にはソ連を初訪問してコスイギン首相と会見。12月には再び中国を訪問。周恩来総理と会見した。
当時、核戦争さえ辞さないほど緊張を高めていた中ソ間を、どちらとも利害のない「一民間人」としての立場で、会長は「対話」によって結ぼうとした。
現在のミハイル・ガルージン駐日ロシア大使は、駐日公使だった2008年にこう語っている。
旧ソ連と中国が難しい局面にあった時期に、池田先生はコスイギン首相から「ソ連は中国を攻めない」という言葉を引き出し、それを中国の指導者に伝えてくださいました。このことは、やがて歴史の上で実現しています。先生が中ソ間の関係改善にも大きな協力をしてくださったことを、私たちはよく認識しています。(『潮』08年5月号)
米中ソ首脳との対話を終えて
周総理が池田会長に強く託したことのひとつが、日中平和友好条約の締結であった。
国交正常化が遂げられたものの、当時は中国でも四人組が権力掌握を狙って暗躍し、日本でも自民党内に反対勢力が強く、平和友好条約締結は実現していなかった。
周総理との会見から1カ月後の75年1月10日。会長はニューヨークの国連本部でワルトハイム事務総長と会見。青年部が集めた「核兵器廃絶」を願う1000万人の署名簿を渡した。
13日にはワシントンで米国のキッシンジャー国務長官と会談。長官からは重要なメッセージとして、日中平和友好条約への全面的な賛意が示された。
訪米中だった大平正芳大蔵大臣は、この日、ワシントンの日本大使公邸に池田会長を招いて会談。会長からキッシンジャー長官の賛意が伝えられた。大平氏は、日中国交正常化の共同声明に調印した際の外務大臣であった。
この大平氏が自民党幹事長を務めた78年に、日中平和友好条約は調印されることになる。
人類の未来について、宗教、文明の異なる世界の知性たちと次々と対話を重ね、さらに緊張状態にあった米中ソという世界の3大国の首脳とも、対話によって平和への道を開いた池田会長。
75年5月に日本経済新聞社から刊行された『私の履歴書』に、会長は当時の率直な思いをつづっている。
もとより私は平凡な一民間人に過ぎないし、政治的な行動を意図したものではないが、人間が生き延びるために、平和を求めて行動すること自体、すでに仏法の道に入っており、そのための人間としての誠意ある行動は、仏法者として当然とるべき姿勢であろう。宗教とは人間のためにあり、宗教のために人間があるのではない。
この時期すでに「宗教とは人間のためにある」と明確に述べられていることを見落としてはなるまい。
真冬の北米での日程を終えた会長は、ハワイで会員を激励し、そこからグアムに移動した。そして、1月26日に世界平和会議を迎えるのである。
創価学会に脈打つ仏法の叡智を、いかにすれば人類共有の財産にし、現実の世界を変革できるのか。
米中ソ3カ国の首脳と対話し、核廃絶へ1000万人の民衆の声を国連に届けるという池田会長の平和旅のなかで、SGIは誕生したのであった。
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