「一期一会」の会見
1974年12月5日の午後10時近く。
中国の周恩来総理は、池田大作・創価学会第3代会長と北京市内で「一期一会」となる会見をした。会見は、周総理の強い意向によるものだった。
じつはこのとき周総理は中南海にある要人専用の三〇五病院に入院中で、医師団の厳重な管理下にあった。
同日の午前中に池田会長と人民大会堂で会見した鄧小平副総理(当時)も、総理の病状が思いのほか深刻で入院中であることを会長に明かし、〝総理自身が池田会長に会いたいという思いを持っているようだが、今は誰とも会わないように皆が止めている状態だ〟と伝えていた。
総理の逝去は400日後の76年1月8日である。
周総理の母校・南開大学の周恩来研究センターが2001年3月に中央文献出版社から刊行した『周恩来と池田大作』(日本語版は朝日ソノラマ刊)は、この会見の主要な意義を3つ挙げている。
第1は、総理の健康状態が大変厳しいなかで、それでも総理が会見に臨んだこと。
第2は、それほどまでに日中友好への池田会長の貢献を中国側が高く評価していたこと。
第3は、総理が「世々代々にわたる友好」の重責を池田会長に託したこと。
本稿ではこの3点について、3回にわたって振り返りたいと思う。
文献的に確定した功績
日本語版の監修にあたったジャーナリストの西園寺一晃氏は、中央文献出版社は「中国共産党の党史的に評価が確定したもの」について順次出版することを主たる業務とする組織だと述べている。
この本が同出版社から出たということは、周恩来総理と池田大作会長の結びつき、七四年十二月の会見前後の状況、池田会長の日中関係における功績が、中国の党史において、その評価が文献的に確定したことを意味する。これは大変なことである。もちろん日中関係において、功績のある日本人は少なくない。中国が高く評価している人も多い。しかし、中国が文献的に確定するほど重視する人はごくまれである。(西園寺一晃氏/『周恩来と池田大作』)
実際、この書籍が刊行された年の12月、北京大学に「池田大作研究会」が設立された。これが中国の大学・学術機関における池田研究の端緒となり、湖南師範大学「池田大作研究所」、広西師範大学「池田大作教育思想研究所」、東北師範大学「池田大作哲学研究所」など、2019年末時点で中国全土の50近い大学・学術機関に池田思想研究の拠点が誕生している。
さて、話を1974年12月5日に戻そう。
池田会長はこの年の5月末から6月にかけて中日友好協会の招きで初訪中し、李先念副総理(のちに国家主席)らと会見している。のちに明らかにされたことだが、周総理はちょうどこの会長の訪中の期間中に、膀胱がんの切除手術を受けていた。
2度目の訪中は北京大学の招聘(しょうへい)によるもので、12月2日からはじまっていた。
前述したように、5日の午前に行われた鄧小平副総理との会見でも、周総理の病状は深刻で来客との面会は「皆が止めている」と伝えられている。
また、この時期はいわゆる「四人組」が権力を掌握しようと図って、周総理や鄧小平副総理の追い落としを画策していた時期でもあった。
医師団の制止を振り切った総理
12月5日夜、実質的な日程を終えて訪中団主催の答礼宴が北京市内の国際クラブで開かれていた。
宴も終わりに近づいたころ、主賓である廖承志(りょうしょうし)・中日友好協会会長のもとに一本の電話がかかってきた。電話を終えて席に戻った廖氏は池田会長に、周総理がこれから池田会長と会見する意向だと伝えた。
総理の病状を聞いていた池田会長は「お体に障ります。行くわけにいきません」と固辞したが、廖承志会長は会見が総理自身の強い希望によるものだと告げた。
総理はだれにも会わない時期でした。医師団も皆、体を心配して反対しました。それを振り切って、周総理は「どうしても会うんだ」と言って会われた――そう夫人の鄧穎超さんからうかがいました。日中友好に大きな役割を果たされた名誉会長への深い感謝の表れだったのではないでしょうか。(西園寺一晃氏/同書)
当時は伏せられていたが、周総理が池田会長を迎えたのは入院先の三〇五病院だった。
2006年に南開大学周恩来研究センターの孔繁豊所長と紀亜光秘書長が、やはり中央文献出版社から刊行した『周恩来、池田大作と中日友好』(日本語版は白帝社刊)は、その模様をこう記している。
池田会長一行が会場に到着すると、周総理はみずから玄関で立って待っていた。周総理は池田会長の手を強く握りしめながら、「よくいらっしゃいました。池田先生とは、どうしても、お会いしたいと思っていました。お会いできて本当にうれしいです」と語った。
友好交流を池田会長に託す
周総理は76歳。池田会長は46歳。
総理の体調を気遣って、会見の席に学会側からは香峯子夫人だけが同席した。
そして周総理は、
池田会長は中日両国人民の友好関係の発展はどんなことをしても必要であるということを何度も提唱されている。そのことが私にはとてもうれしい。(『周恩来、池田大作と中日友好』)
創価学会と公明党がその目標に向かって積極的に取り組んでおられるが、私たちが共にいだく願望に合致しています。中日友好が今日まで発展できたのは、私たち双方の努力の成果であり、そして、私たちは、その努力をこれからも続けていくよう希望します。(同書)
と語った。
この会見の通訳を務め、のちに党中央委員、全人代常務委員などを歴任した林麗韞(りんれいうん)さんによると、会見中に医師団から1枚のメモが林さんの手に渡った。
そのメモには「総理、そろそろお休みください」ということが書かれていた。林女史はそのメモをそっと周総理に渡した。
しかし、周総理は明らかにそのメモが渡されたことを意識しながらも、手のなかに収めたメモには目を通さず、池田氏との会談を続けたのである。(『周恩来と池田大作』)
会見は午後10時20分頃まで約30分間に及び、周恩来総理は玄関まで池田会長一行を見送った。
林さんが『グラフSGI』1997年7月号に寄せた次の証言も、『周恩来と池田大作』には収録されている。
お二人とも初対面とは思えないほどに胸襟を開いて話をされていました。周総理は、重い病気でしたが、中日友好をはじめ、アジアの平和、世界の平和について気迫を込めて語られ、とくに、中日友好交流を池田先生に託されていると痛切に感じました。
一方、池田先生は〝療養中なのに本当に申し訳ない〟という総理への思いやりに満ちあふれていました。先生は総理の肘に手を添え、抱えるようにして握手されました。総理もそんな池田先生にじっと視線を向け、終始、心底からうれしそうな表情でした。
「『周―池田』会見45周年」:
「周―池田」会見45周年(上)――文献的に確定した会見の意義
「周―池田」会見45周年(中)――日中国交正常化への貢献
「周―池田」会見45周年(下)――池田会長が貫いた信義
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