2008年に沖縄空手の有力4団体で結成された連合組織・沖縄伝統空手道振興会(豊見城市)。これまで各種国際セミナーの開催をはじめ、沖縄空手会館の運営などにも携わってきた。このほど喜友名朝孝・前理事長の任期を引き継ぎ、歴代4人目の理事長に就任した北中城村(きたなかぐすくそん)の新垣邦男(あらかき・くにお 1956-)村長に、振興会の今後の課題などについて聞いた。(取材 2019年6月27日)
上地流空手で青年期をすごす
――このほどは振興会の理事長就任おめでとうございます。村長の仕事に加え、結構エネルギーを使われているのではないでしょうか。
新垣邦男理事長 正直なところ、振興会との関わりはこれまでほとんどありませんでした。ただ初代の高宮城繁(たかみやぎ・しげる 1935-2014)理事長が、私の通っていた道場の館長で、当時から非常にご苦労されているのを知っていました。まさか私のところに話が来るとは思っていませんでした。4団体の先生方、また喜友名前理事長からも、体調がよろしくないのでぜひとも頼むと言われ、私ではとても力不足ですし、公務もありますので、すぐにはご返事できず、しばらく考えさせてくださいということでその日は帰っていただきました。
――打診はいつごろなされたんですか。
新垣理事長 ことしの3月末でした。
――就任の1カ月前ということですね。
新垣理事長 はい。
――ご自身で空手を始められたのは25歳のときということですが、どういう動機で始めたのですか。
新垣理事長 友人が町道場で空手を習いたいからお前も一緒に行ってくれと言われて行った先が、たまたま高宮城先生の北谷(ちゃたん)道場でした。見学に行ったら友人だけでなく「君もやりなさい」と言われ、「わかりました」と2人で入門したのが始まりです。結局、友人のほうはあまり続かなかったのですが、私のほうも稽古の厳しさに何度もくじけそうになりました。当時から上地流は鍛錬の空手で、体を叩いたり、突いたり蹴ったりの実戦空手です。顔面は寸止めになっていますが、あとは何をやってもいい。厳しい先輩が一人いて、この人にいつか勝ちたいと思うようになって、それで少し続いたんだなあと思います。
――特段、空手を始める動機はなかったわけですね。
新垣理事長 そうです。流派も自分で選んだわけではなく、たまたま上地流でした。組手の試合に出るんですが、最初は恐がって、全然勝てない。試合に出れば、蹴られ、殴られ、鼻血を出してダウン。それでも先生は「ずっと出ろ」と。もうやめようかなと思ったこともありました。あるとき開き直って、逃げないで、自分から前に出て行こうと、自分で仕掛けて前に出たら勝ってしまったんです。それから試合慣れして、相手の動きがよく見えるようになりました。間合いの取り方とかも考えるようになった。逃げてはいけない、自分から前に行く。このときの体験が、私の人生の大きな教訓になっています。苦しいときほど逃げちゃいけない。今の村長という仕事にもそれが生かされています。
――入門してすぐに組手のようなことをしていたわけですね。
新垣理事長 上地流は顔面は寸止めなんですが、勢いがついて止まらないことも多かった。故意にやったらもちろん反則なんですが、だから受けなきゃいけないという意識も生じます。試合でも必ず顔面を守らないといけない。
――拳サポーターのようなものは着けるのですか。
新垣理事長 着けました。でも下手に手を出せない。極真空手も同じようなルールですが、極真は顔面の寸止めがない分、まだ恐さが少ないかもしれません。
――空手歴は40年近くになりますが、村長になってからも稽古は続けていたのですか。
新垣理事長 2004年に村長に就任し、時間の空いているときに道場に行って稽古したりしていました。あとは兄弟子の道場でもお世話になったり。高宮城先生は大学教授でしたが、空手に非常に熱心で、村長になって間もないころも電話がかかってきて、「新垣君、こんど演武があるから、出るように」と言われて、「先生、その日は予定が入っているから行けそうにありません」と答えたら、「空手とどっちが大事なんだ」と一喝されて、その日だけ仕事を調整して演武に出たこともありました(笑)。空手に対して、それくらい熱いものを持った先生でした。今回の話も後で考えたら、先生が「振興会を手伝え」と言っているのかなとも思いました。
「伝統」と「競技」を車の両輪として進める
――振興会の会長は歴代沖縄県知事で、現在は玉城デニー知事が会長を務めています。なぜ理事長に白羽の矢が立ったと考えていますか。
新垣理事長 私よりもずっと先輩の高段者の先生方がいっぱいいらっしゃるので、我々の世代がやるようなものではないと思っていました。ところが振興会も11年目に入り、先生方はみなプレーヤーであって、県庁に空手振興課もでき、県全体で沖縄伝統空手の普及を推進しようというときに、振興会も県と同じ目線で同じ方向に向かわないといけないという要請が出てきたのだろうと思います。県知事や県とある程度つながりがあって、パイプ役として最も適切な立ち位置にいるのはお前だろうということで話が来たものと認識しています。
今後とも、沖縄が「空手発祥の地」と言われ続けるような振興会として機能していかないといけません。人材育成、本物の技の継承……。さらに将来は法人化をめざす方向なので、それをどのように進めていくかが今後の課題になると思います。
――法人化するとやはり変わるんですか。
新垣理事長 いつまでも県という行政予算に頼るのではなく、将来的には振興会が一人立ちできる態勢をつくるというビジョンになっています。
――振興会は4つの団体を束ねる立場でもありますね。
新垣理事長 根底にはそれぞれの団体の言い分もあるはずですが、各団体ともきちんとまとまっていかないといけないということは認識されていると思います。来年は東京オリンピックもありますし、「伝統空手」と「競技空手」の双方が理解し合って、沖縄としてしっかり団結することが重要と考えています。
――振興会の初代の高宮城理事長は、1981年の国体問題のときは伝統空手を守れと主張する側の急先鋒でした……。
新垣理事長 伝統空手も、スポーツ空手も、それぞれのよさを深めていくことをしないといけないと考えています。自分に与えられた役割をしっかり進めていきたい。
――振興会としては、ある程度、行政的な手腕をもった人が求められていたということですね。
新垣理事長 そういう側面もあったかもしれません。仲井眞知事がせっかく立ち上げて作った団体ですので、前に進めていく態勢を作らないと、沖縄空手もうまく前に進めなくなる。偉そうに言って何ができるかといわれるかもしれませんが、そういう意識を持って取り組むことが大事と考えているところです。
あらかき・くにお●1956年生まれ。県立名護高校、日本大学法学部卒業後、北中城役場に入職。2004年に退職後、村長に当選。現在4期目。空手は上地流・教士7段の腕前。沖縄伝統空手道振興会・理事長
【連載】沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流:
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