リービ英雄さんとは、文芸家協会でときどき顔を合わせる。最初にお眼にかかったとき、「村上政彦です」と名刺を出したら、「お名前は、よく存じ上げております」と丁寧な日本語で返されて驚いた。
彼は、北米で生まれ育ったアメリカ人だ。17歳で日本語と出会って、大学で『万葉集』を学び、それを英訳して、北米でもっとも権威のある全米図書賞を受けた。その後、日本語で小説を書くようになり、作品は高く評価されている。
『我的日本語』は、リービさんによる日本語論なのだが、彼が日本語と出会ってから、新宿で暮らし、中上健次に「日本語で書け」と言われて小説を書き始め、中国大陸へ赴いて現在の中国を日本語で書く、といういきさつが自伝的に書かれているので、とても興味深く読める。
元号が「令和」になり、出典が初めて国書の『万葉集』であることが話題になっているが、僕は、本書で山上憶良が渡来人であるという説を知った。憶良は、漢詩や漢文の散文も書いたが、大陸の言語でなく、やまとことばを使った。
リービさんは、この憶良に、自分の先人の姿を見ている。英語は世界語となりつつある。世界の言語の中心である。周辺のマイナーな言語を使用するする人々が、英語を学び、英語によって表現することは珍しくない。
ところが、リービさんのように、英語を母語としながら、マイナーな日本語を学び、日本語で表現する人々は、まず、いない。彼は、西洋人でありながら日本語の書き手として、日本文学へ参入してきた稀有な例である。
「日本語の勝利」ということを、リービさんはいう。日本には、ひとつの国家=ひとつの民族=ひとつの言語という根強い考え方がある。しかし彼は、そういう古いナショナリズムから日本語を解放した。
日本で生まれ育ち、日本語を母語とする日本人でなくても、日本語による表現は可能であること、つまり、日本語の言語としての普遍性を証明してみせた。リービさん以降、そういう表現者がぽつぽつ現れるようになった。
この「日本語の勝利」は、日本の外にいる人たちからもたされたものだ。そこで僕ら、日本で生まれ育ち、日本語を母語とする日本人は、ある問いを突きつけられる。日本人として、どのように日本語と向き合うかである。日本語の普遍性が証明された、日本語はすばらしいと浮かれているわけにはいかない。
僕は、日本語の歴史を引き受けなければならない、とおもう。そのとき近代の日本語が射程に入れる必要があるのは、かつて日本語が植民者の言語としてふるまった事実ではないか。
日本は、台湾、朝鮮を植民地として、その後は満洲なども含め、現地の人々に日本語を強制してきた。「言葉は文化の肉体」だ。母語を奪って、植民者の言語を強制することは、その土地の文化を破壊することでもある。
日本語は、この歴史を見つめなければならない。そして、それを総括することだ。僕は、1997年に朝鮮半島へ赴いた。そのとき、まだ、その問題意識はぼんやりとしていた。2002年から翌年にかけて台湾を訪れた。
このときは、はっきりとその問題意識を持っていた。まず、ノンフィクションで『君が代少年を探して 台湾人と日本語教育』(平凡社)という新書を書いた。
これは昭和十年に起きた台湾大地震で重傷を負った台湾の少年が、死の間際に「君が代」を日本語で歌った、というエピソードを、当時の日本が国語の教科書として、本土の日本人や植民地の人々に学ばせた事実を追ったものだ。
その後、小説として、現在にいたっても日本語を使用する台湾の人々(日本語族)のことを『陽炎の島』(文學界)という小説に書いた。こちらのほうは、現在、加筆修正して、出版に向けての作業を進めている。
また、満洲のことも小説として書いた。こちらも近く発表する予定だ。
僕の、日本語の歴史と向き合わねばならないという問題意識は、リービさんの作品を読んで生まれたものではない。アジアの物語作家として表現していく、というライフワークから導き出された結論だ。
しかしリービさんの仕事に強い励ましを受けている。こういう作家が増えれば増えるほど、僕ら日本人は、日本語の歴史と向き合わねばならないのだ。
参考文献:
『我的日本語』(リービ英雄著/筑摩選書)