糸洲安恒の空手を引き継ぐ
「拳聖」と謳われた松村宗棍(まつむら・そうこん 1809-1899)や糸洲安恒(いとす・あんこう 1831-1915)の流れに位置する知花朝信(ちばな・ちょうしん 1885-1969)が、1933年に命名して開いたのが小林(しょうりん)流である。この流派は、首里手の本流といってよい。
知花は剛柔流の宮城長順(みやぎ・ちょうじゅん 1888-1953)や本土で糸東(しとう)流を開いた摩文仁賢和(まぶに・けんわ 1889-1952)と同世代にあたり、東京で空手普及にあたった船越義珍(ふなこし・ぎちん 1868-1957)より二周りほど下の世代となる。
摩文仁は大阪に出て空手普及にあたるが、最初は知花朝信に大阪赴任の要請があったものの、仕事の都合で叶わなかったとの逸話が残されている。
知花は1918年、33歳から道場を開いて指導を始めた。小林流の特徴は、巻き藁での鍛錬を重視し、さらにアテファ(強い突きの威力)を重んじる。知花自身が戦後まもない1948年に結成し初代会長を務めた「沖縄小林流空手道協会」の、現4代目会長を務める宮城驍(みやぎ・たけし 1935-)は小林流空手の特徴についてこう語る。
知花先生の教えは、手足を伸ばしてのびのびとやりなさいというもので、自然の動きを強調されていました。美しい形にこそ力がこもるとの意味もありまして、さらに瞬発力を重視するのも小林流の特徴と思います。
その後、知花は1956年に結成された戦後の沖縄空手界の最初の団体である「沖縄空手道連盟」の初代会長に就任し3年の任期を務めたほか、69年に亡くなるまで「沖縄小林流空手道協会」の会長として小林流の総帥的立場にいた。
知花の50年にもおよぶ空手指導の中で残した弟子は数えきれないが、現在の主な流派組織につながる直弟子をあげると、比嘉佑直(ひが・ゆうちょく 1910-1994)、宮平勝哉(みやひら・かつや 1918-2010)、仲里周五郎(なかざと・しゅうごろう 1920-2016)、上間上輝(うえま・じょうき 1920-2011)などがいる。現在の「究道館」「志道館」「小林舘」「守武館」にそれぞれつながる。
長寿者ひしめく流派
首里手全般にいえることだが、小林流には長寿の空手家が多いのも顕著な特徴の一つだ。指導的立場の武人の享年を列記すると、松村宗棍90歳、糸洲安恒83歳、知花朝信83歳、比嘉佑直83歳、宮平勝哉92歳、仲里周五郎96歳、上間上輝91歳と、不思議なほどに相当な長寿者で占められる。
その理由として、小林流の稽古では自然な呼吸法を特徴とし、無理に力むことがないためと考えている人も多いようだ。
船越は東京に出て各大学を拠点に指導を行ったため、大学4年間で教え込むという時間的な制約を課せられることになった。本来、沖縄空手はゆうに20年や30年かけて教え込む内容だ。勢い、促成栽培のように教える必要が生じたこと、さらに血気にはやる若者たちは沖縄空手伝統の「型の反復」といた稽古法に耐え切れず、安易な組手や競技重視に走ることになった。そのため、松濤館では沖縄伝統の型が崩れ、変質していった側面があるとされる。
よく言われることだが、本土に輸出された首里手の型の名称が、ピンアンからヘイアンに、ナイハンチが「鉄騎」、チントウが「岩鶴」、クーサンクーが「観空」というように日本式に改名されたほか、ピンアン初段と2段の内容が故意に入れ替えられるなど、沖縄本来の空手とは違う様式へと変化した。一時期船越義珍の弟子となった大山倍達(おおやま・ますたつ 1923-94)が起こした極真空手でも、松濤館流の型を踏襲しており、沖縄本来のオリジナル型とはかなり異なるものとなっている。
多くの弟子を残した比嘉佑直
戦後の沖縄空手界の4天王といわれたうちの一角が、比嘉佑直の小林流の系統だ。比嘉は、もともと高校時代は野球の選手だったが、空手鍛錬も同時に行っており、当初は剛柔流に励んでいた。戦後、知花に弟子入りした経緯がある。現在、「究道館」の2代目館長を務めるのは、おいの比嘉稔館長(ひが・みのる 1941-)で、長男佑直の弟(3男)の子に当たる。
もともと柔道に打ち込み、4段の腕前をもつ稔は、18歳からおじの道場への入門を許可され、空手を始めた。
ふだんは優しかったが、稽古には非常に厳しかった。巻き藁突きがわれわれの真似のできないくらいに強かった。
と回想する。
佑直も多くの弟子を残したことで知られ、「道場の外で技を試してこい」としばしば口にし、無頼なタイプの弟子も多く集まったようだ。稔によると、「一番大切なのはティージクン(拳の破壊力)」が口癖だった。比嘉佑直は那覇市議会議員として8期26年を務め、議長の要職にも5年間就いた。戦後になって那覇市の大綱挽(おおつなひき)を復活させたのも佑直の功績で、稔もその流れを継ぐ。
ちなみに、沖縄の空手4団体を統合して「沖縄伝統空手道振興会」(2008年)を結成する強力な後支えをしたのは、佑直の弟子の一人で、経済界で活躍していた金秀グループ創業者の呉屋秀信(ごや・ひでのぶ 1928-2017)だった。呉屋の尽力で、県知事をトップに据えた。沖縄空手の統一組織ができたことを評価する人は多い。(文中敬称略)
【連載】沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流:
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