連載エッセー「本の楽園」 第60回 横尾忠則の世界①

作家
村上政彦

横尾忠則のことはとても個性的な絵を描くイラストレーターとして知っていた。でも、それだけだった。特にそれ以上のことを知ろうとも思わなかった。彼のことが気になり始めたのは画家に転向してからだ。
確か、マルセル・デュシャンの影響で、死んでいた絵画がニュー・ペインティングと称されて、またアートの世界で復活を遂げたころだったか。イラストレーターとして成功していた彼が、絵画という未知の領域に乗り出したことで、なぜか? という思いが湧いた。
でも、何となく、それも素通りして、横尾の作品や本を手にすることはなかった。去年あたりから、ぽつぽつ彼の本を読むようになった。これがおもしろかった。横尾は、いま83歳。このコラムでも、ちょっと前に『老年&創造』を取り上げたが、80歳になってからの彼の活動に、なぜか惹かれる。
『死なないつもり』は、恐らく、語り下ろしたものをまとめた著作だ。横尾の信条や日常、創作活動まで幅広く語っている。老いや病気や死の話題も出るが、どれも肯定的で深刻なところがない。これは彼の心性に根差すものだろう。
何度も現れる言葉がある。インファンテリズム(幼児性)だ。彼は、子供の心を大切にしている。

 大人と子どもの違いははっきりしています。子ども心をなくしたのが大人です。

 子どもは快楽的だし、自由です。大人とは違う、不思議な欲望を持っている。
常に初心で見て、結果を考えずにそのこと自体を楽しむこと。そして好奇心を持ち続けること。これが創造の必要条件です。

 子ども心を失わないようにするために、新しいことを意識して探したり、機会があるたび子ども文化に触れたりします。

 キョロキョロ落ち着きなく、興味を持ったら結果を考えずにやってみる。飽きたら放り出す。そういう子ども心をずっと持ち続けていたいんです。

つまり、創造するためには、子供の心を持ち続けることが必要だということで、横尾は、それを実践している。だから、老いや病気や死を語っても陽性なのだ。
画家の本なので、やはり、絵について語られたくだりは興味深い。

 僕にとっての創作がプロセスを楽しむことにあるからです。一枚の絵を完成させることが創作なのではなく、あくまでプロセスが大切で、今この瞬間をどれだけ楽しめるか、あるいは、この絵がどのようになっていくかの期待と楽しみを味わうことが面白い。その中には不安もあるけれど、不安=楽しみであって、「描く喜び」というのか、そういったものに作品を作ることを還元させていくのです。

完成された絵は、創作のプロセスでもたらされた楽しみの結果なのだ。だからいい絵、つまり十分に画家が楽しみを味わった絵には、人を満足させる力がある。
ところで画家は最後の一筆をどこで判断するのか? これは僕が長く抱いていた疑問なのだが、これについての解答もある。

 絵と僕が、お互いに交渉し合い、話し合っているんです。絵のほうが「このへんでそろそろいいんじゃない」と言って、僕も絵に向かって「そうだね」、みたいな取り引きをするんです。

これは僕も小説を書いているので、分かる気がする。どこで筆を擱くかは、作品しだいで、作家が勝手に決められるものではない。そこには、やはり、取り引きの一種があるのかも知れない。
猫について語ったところは、愛猫家なら、みな頷くだろう。

 僕にとって猫は生活必需品です。なかったら生活できないし、生きていけない

 人間は猫を「飼っている」と思っているけれど、猫からすれば、「人間を同居させてやっている」だけ。「一種に暮らしてるけど、上下関係はないよ」って主張している。

『死なないつもり』は、新書の語り下ろし(多分)なので、横尾と話している気分で気軽にページをめくることができる。しかし内容は、なかなか深い。横尾忠則という稀有の画家の魅力が堪能できる。

お勧めの本:
『死なないつもり』(横尾忠則著/ポプラ新書)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。