終わりのない旅の記録——書評『極北へ』(石川直樹著)

美術史研究者
高橋伸城

「今見ている世界」の外へ

 大学生になった1997年の夏、著者はカヌーを背負ってアメリカ大陸へと向かった。
 多くの冒険家たちを魅了してやまないユーコン川を下るためであった。
 カナダ西部の氷河に始まるこの細い流れは、アラスカの大地をヘビのようにうねりながらベーリング海へとそそぐ。
 極北へと何度も引き寄せられるきっかけともなったこの挑戦。出発から到着まで、すべてを一人でやり遂げた。
 その緊迫した道中を描いた箇所に、こんな言葉が出てくる。

 今見ている世界が世界のすべてではない(『極北へ』P14)

 スマートフォンで地図のアプリを立ち上げれば、衛星画像で継ぎはぎされた地球がすっぽり手のひらにおさまる。
 ふとした折に気になった言葉をブラウザで検索すると、すでにどこかの誰かが調べてくれている。
 インターネットの普及とともに、ますますそこに「すべて」があるかのような顔をして立ちあらわれてくる「世界」。
 しかし、着々と触手を伸ばし続けるこの網の目にも、すくい取れないものがある。
 本書の著者は時に恐れながら、時に愛おしみながら、そのこぼれ落ちた部分を拾い上げる。
 まだ名もつけられていない道端の花。身を凍らせる動物の眼。そして、死者の魂。
 旅をするとは、この「世界」におさまりきらないものとの出会いを、真正面から受け入れることなのだろう。

「驚き続けたい」

 著者の石川直樹氏は1977年生まれ。十代の頃から、危険をかえりみずに未踏の地へおもむく先人たちの本を読みあさった。
 見たこともないような地球の表情を自分の眼で確かめたいという思いはつのり、やがて次々と行動へ移してゆく。
 2001年に23歳でエベレストの北壁に登頂、当時の七大陸最高峰制覇の世界最年少記録を塗りかえた。
 その3年後には、神田道夫が試みた熱気球による太平洋横断に同道。このときの体験をつづったエッセイが2008年、開高健ノンフィクション賞を受賞し、『最後の冒険家』として出版された。
 また同年には、東京藝術大学で「環太平洋における群島文化論」をテーマに博士論文を書き上げている。
 さらに2011年、ハワイ、ニュージーランド、イースター島に囲まれるポリネシア・トライアングルを舞台とする写真集『CORONA』が土門拳賞を受賞した。
 その活動の場は教育の領域にもわたっている。2015年には香川県高松市を拠点として、写真学校「フォトアーキペラゴ」を開始。毎年、プロから初心者まで、幅広い受講生を集めている。

 石川直樹氏はあるインタビューでこう答えている。

 旅は「新しい世界との出会い」だと思ってます。「驚き続けたい」という気持ちが常にあるから、ガイドブックをなぞるスタンプラリーのような旅ではなく、自分が知っている範囲から一歩でも外に出て、知らないものを自分の目で見たいんです。「ANA Travel & Life」(2015年6月30日)

 できあがった「世界」の外を求めてつむがれてきた旅人の歌は、こうした人とのふれあいや著作を通して、次の世代へと受け継がれてゆくのだろう。

現代美術家として

 多彩な活躍を見せる石川直樹氏。その中でも、美術史を研究してきた評者がここで特に注目したいのは、「現代美術家」としての顔である。
 本書の巻頭にも、著者本人によって撮られた写真が4ページにわたって、カラーで掲載されている。
 分量としては決して多くはない。しかし、それだけにいっそう、1枚1枚に焼きつけられた光の密度が際立っている。
 そこに私たちが聞くのは、声にならなかった声である。言葉にならなかった言葉である。
 はっと息をのんで黙るしかなかったその瞬間を捉えるレンズに、気負いやてらいは全くない。

 先のインタビューで、著者はこう語っている。
 

 カメラに三脚をつけていることが多いのですが、それでも驚いた瞬間の体の反応でパッと撮っています。自分がいいと思ったものだけを撮る。アングルをあれこれ迷ったり、写真を見る人の感情を想像して撮ったりということはありません。(同)

 写真が当たり前のように持っている「記録する」という機能。
 著者はそれを大いに活用しながら、自らのたどった足跡そのものを、つまりは生きた人生そのものを、芸術として表現しているとも言えよう。
 
 2016年の年末、それまでの集大成として、個展「石川直樹 この星の光の地図を写す」が水戸芸術館で開かれた。
 新潟や千葉、高知などを巡回してきた同名の展覧会がこの秋、福岡の北九州市立美術館の分館へやってくる。
 本書に導かれ、今ある「世界」の向こう側へと旅立つ準備ができたなら、本展はぜひとも訪れたいところ。そこには新たな出会いが待っていることだろう。

企画展「石川直樹 この星の光の地図を写す」

石川直樹公式サイト 石川直樹公式ブログ<Fot Everest>

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『極北へ』
石川直樹著

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たかはし・のぶしろ●1982年、東京生まれ。エジンバラ大学とロンドン大学で美術史と宗教学の修士を取得。立命館大学博士課程、単位取得満期退学。江戸時代に書や工芸に携わった本阿弥光悦を中心に研究を続ける。