僕は中学生のころにレイモン・ラディゲを読んでいた。彼は夭折した天才作家なのだが、学校は嫌いだったようで、授業を抜け出し、湖に浮かべた小舟に寝そべって本を読むのが日課だったらしい。
このくだりを読んだとき、羨ましいとおもった。僕も学校は嫌いだったし、本を読むのは好きだった。でも、近所に手頃な湖はなく、まして寝そべることのできる小舟などなかったので、学校の保健室のベッドで本を読んだ。
登下校の道の途中に小さな本屋があって、そこで文庫を買い求め、学校に顔を出し、体調不良を訴えて保健室へ行く。すると、たいていベッドが空いていて、ちょっと寝ていくようにいわれる。
僕はカーテンを引いて、外の世界と遮断された個室で、おもむろに文庫本のページを開くのだ。少しばかり背徳感があって、中身の濃い読書ができた。吉行淳之介の『娼婦の部屋』という短篇を読んだのが記憶に残っている。
これは、僕の読書の原風景の一つである。もう一つ、忘れられない、読書の原風景がある。ほかのエッセーでも書いたことがあるのだが、まだ20代のころ、街を歩いていたら、向こうからひとりの少女が歩いて来た。
少女は、本を読みながら、ゆっくり歩いている。周りのことは、まったく気にならない様子で、本に夢中なのだ。僕は、いい風景だな、とおもうのと、同時に、少女が何を読んでいるのか、とても気になった。
それだけの出来事だったのだが、数十年経ったいまでも、はっきりと憶えている。
アンドレ・ケルテスの写真集『読む時間』を開いて、まっさきにその少女の姿をおもいだした。ケルテスは、20世紀のもっとも重要な写真家のひとりで、ハンガリーに生まれ、パリ、ニューヨークを拠点に活動した。
『読む時間』は、1915年から1970年までに撮影された写真をまとめたもので、1971年に出版され、ケルテスの代表作となった。タイトルが示している通り、ページをめくる僕らは、本を読む人をとらえた写真を眼にする。
いちばん古い写真は、1915年のハンガリーで、3人の子供たちが肩を寄せ合って、夢中で、1冊の本を読んでいる姿が写っている。彼らの身なりは貧しく、2人は素足なので、本は貴重なものだったろう。
僕は、この1枚がもっとも印象に残った。あの少女の姿と重なったのだ。ここには、人が本を読むことの、何かしら本質的なものがとらえられているとおもう。それは生きることに関わる何かだ。
この後、ケルテスのカメラは、さまざまな読む人をとらえていく。学校の教室で、路上のカフェで、公園の木陰で、アパートの屋上で、大人も子供も、白人も黒人も、活字の本を読み、画集を開き、新聞を手にしている。
ケルテスは、日本にも来ていて、図書館、古本屋、新聞スタンド、電車のなかで読む人をとらえている。
この写真集の冒頭には、谷川俊太郎の詩が掲げられていて、ケルテスの試みを巧みに言葉で表現している。
いまこの瞬間この地球という星の上で
いったい何人の女や男が子どもや老人が
紙の上の文字を読んでいるのだろう
右から左へ左から右へ上から下へ(ときに斜めに)
似ても似つかないさまざまな形の文字を
窓辺で木陰で病床でカフェで図書室で
なんて不思議…あなたは思わず微笑みます
違う文字が違う言葉が違う声が違う意味でさえ
私たちの魂で同じひとつの生きる力になっていく
先日、ある調査で、大学生の50%が1日にまったく本を読まないという結果が出たという。電車に乗ると、人々は誰もがスマホを見ている。本を開いている人を見かけることは少なくなった。
でも、スマホのディスプレイには、多くの場合、文字が映っている。活字文化は、だんだん衰退していくかもしれないが、文字文明は器を乗り換えて続いていくだろう。だから、僕は、あまり出版の未来に悲観しない。
お勧めの本:『読む時間』(アンドレ・ケルテス/創元社)