2017年度のノーベル文学賞は日系イギリス人作家のカズオ・イシグロに決まった。TVのニュースでは、残念がるハルキストたちの姿が映し出され、ここ数年繰り返されている光景が見られた。
村上春樹が国際的な作家としての地歩を築いたのは、この十数年ほどのことだろうか。僕が初めて彼の作品を読んだのは、いまから30年以上も前のことだ。群像新人賞を受けた『風の歌を聴け』という小説だった。
当時、まだ、地方の文学好きの若者に過ぎなかった僕は、いつも出入りしているデパートの一角にある書店で『群像』のページを開いた。そのときのことをはっきり憶えているのは、村上の小説を読んで、「やられた」とおもったからだ。
彼の小説は、そのころ文芸誌に現われる、いわゆる日本文学に属する小説とは違っていた。それよりも、僕が親しんでいた新しいアメリ文学の作家たちの作品に似ていた。これは、作者がそのように望んだのだとおもう。
ドナルド・バーセルミをはじめとするポップ文学の読者だった僕は、密かに、こういう作品を書きたいと考えて、いろいろ構想を練っていた。そこに村上の小説が登場したのだった。
僕は、『風の歌を聴け』を読んで、これで、僕がこのラインの小説を書くことはなくなったとおもった。それ以来、僕は村上の小説を読まなくなった。それからしばらくして、作家デビューを果たし、受賞第一作を書くのに苦心していたとき、編集者から意外なことをいわれた。僕の小説が村上春樹と似ているという。
そんなはずはない。だって、僕は彼の小説を読んでいないのだから――とおもっていたら、批評家の柄谷行人さんが、読まないから似るのだ、というのを聴いて、腑に落ちた。つまり、同じ時代を生きていて、同じような感性を持っていたら、期せずして似たような作品を書くことになるというのだ。なるほど。
それから僕は、できるだけ村上の小説を読むようにした。『ねじまき鳥クロニクル』までは、長篇はほぼ読んでいるとおもう。その後、彼の小説のレシピが分かったので、読まずに済ませることができるようになった。
ある時期までの、村上春樹の小説のレシピは、以下の通りである――アメリカ的生活様式の賛美+都市生活者のダンディズム+文学を少々。
僕は、この十数年ほどずっと、ある主題を抱えている。それはアメリカ発のグローバリゼーションと、どのように対峙するかだ。村上の小説は、典型的な応答のひとつといえる。彼は、その潮流に乗ったのである。
『職業としての小説家』は、自伝的エッセーと銘打たれているように、村上がデビュー後どのように作家生活を送って来たかが描かれている。デビュー前後の様子、芥川賞をはじめとする文学賞について、小説作法など、かなり率直に語られている。そのなかでも興味深いのは、海外進出を企てたくだりだ。
40代になるころ、村上はアメリカへ進出した。アメリカに住居を定め、みずから作品の翻訳者を見つけ、エージェントを探した。アメリカの作家と同じルールで仕事に臨んだという。
幸運なことに進出してから25年で27本の作品を『ニューヨーカー』に発表できた。この雑誌に作品が掲載になると、作家としてのプレステージが上がる。『ニューヨーカー』は審査が厳しく、有名な作家であっても、雑誌のカラーに合わないと「却下」する。村上も何度か「却下」された。しかしこの雑誌のおかげで、彼は作家として欧米で認知された。
このあたりを読んでいると、日本の球界で活躍する選手がメジャーリーグに進出し、現地で活躍するのを見ている気がして、なかなかおもしろい。村上春樹は、作品の作り方も、作家としての活動も、アメリカ発のグローバリゼーションの潮流に乗ったのである。
僕は、村上春樹のような文学もあっていいとおもう。しかし村上春樹は、世界に1人だけでいい。彼の亜流はいただけない。作家であるなら、自分の途を拓かないといけない。村上春樹もそうしたのだ。
お勧めの本:
『職業としての小説家』(村上春樹著/スイッチライブラリー)