ふらっと本屋や古本屋をパトロールするときと違って、図書館へ行くときは、だいたい仕事の資料を調べたり借り出したりと、目的が決まっている。それでもときには、「おっ、こんな本があったか」と目当てのものではない本を手に取ることがある。
このあいだ図書館へ行ったとき、ふと、『カフカの生涯』という表題が眼についた。カフカは若い頃から読み親しんだ作家で、近年、マックス・ブロートの手が入っていない全集が出たのを買った。
作品は読んでいる。でも、生涯については、詳しく知らない。著者が、僕の持っている全集の翻訳者だったこともあり、それほど厚くなかったこともあり、仕事の資料と一緒に借り出した。
読んでみると、予想通りおもしろい。小説家として生きていくことについて、いろいろ考えさせられもする。
カフカの祖父ヤーコプ・カフカは、チェコのヴォセク村で畜殺業を営んでいた。この村は、のちに書かれた『城』の舞台になっている。カフカは、チェコ語で「コガラス」の意味。
父のヘルマン・カフカは、14歳で家から独立して、小間物や雑貨を売り歩く行商人になる。のちに書かれた『変身』の主人公の職業も行商人=セールスマンである。やがてヘルマンはプラハに出て、裕福な家の娘・ユーリエと結婚し、住居兼店舗を持つ。
生まれた長男がフランツ――つまり、僕らの知っているカフカの誕生となる。フランツは当時の皇帝と同じ名だった。長じて王立のギムナジウムに学ぶ。ここは人文教育と古典語を重点にして、大学へ進む道が開かれている。
カフカは、無口で控えめな生徒だった。このころから作家を志望するようになる。プラハ大学に進んで法学を専攻した。のちに生涯の親友となるマックス・ブロートと出会った。文章も書く博識の読書家。カフカが愛読したローベルト・ヴァザリーもフローベールも彼から教わった。
やがてカフカは小説を書き始めた。大学を卒業するころ、すでに友人のマックス・ブロートは新進作家として認められている。後輩も世に出た。なかなか自分の作品は活字にならない。就職も決まらない。おそらく彼は焦っていたはずだ。
田舎の行商人から身を起こして、大都市の裕福な市民に成りおおせた父は、息子が弁護士か官僚になって、社会的に上昇していくことを望んだだろう。カフカが選んだのは、半官半民の労働者傷害保険協会だった。
カフカがこの職場を選んだのは、就業時間が短かったためだとおもう。朝8時に始業、午後2時に終業。その分、俸給は安く、たいていが副業を持っていた。彼の場合は、ほとんど稼ぎのない小説家である。
だから、カフカは、父ヘルマンに、いいご身分だと嫌味をいわれながら、ずっと実家暮らしを続けていた。午後2時半に仕事を終えると、まっすぐ家に帰り、食事を摂って仮眠し、夜になると小説を書く。無理な生活を続けたせいで結核になるが、彼はこの病気を「みずからで招きよせた病」といった。
評伝『カフカの生涯』は、父との確執、恋人フェリーツェとの2度の婚約破棄など、よく知られたエピソードもまじえながら、カフカという作家の人間像に迫っていく。明らかになるのは、浮世離れした小説家の姿ではなく、まっとうに世の中と渡り合っている社会人の姿だ。
さらに、僕が興味を惹かれたのは、幻想的とおもわれる彼の作品が、実は、モデルになる人物がいたり、舞台になった土地が実在していて、現実に根を持っているところだ。
ある人物は、こう語っている。
ごく当然のように慣れ親しんだパノラマを見るようであって、どの片隅、どの町角、どんな埃っぽい廊下も、すぐにそれとわかる。
すごく当然のことだが、あのカフカも普通に生きていた。それが実感できるのは、この評伝の功績だろう。
生前のカフカは、マックス・ブロートをはじめ、ごく一部の人々に認められただけで、ほとんど無名だった。『カフカの生涯』の著者によれば、自作に対して冷淡だったという。本屋にあった自分の本を買い占めた伝説を、「人目に触れさせたくなかったのではないか」ともいう。
自作に冷淡だったのは、眼の高さに手が追いつかなかったからではないか。カフカの作品が劣っているというのではない。彼の眼は、もっと高みを見ていたのではないかとおもうのだ。
第一次世界大戦が始まって世情が騒然としていても、まるで戦争など起きていないように、小説を書くことに専念している。彼の主要作の大半は、この時期に書かれた。著者はカフカを「国内亡命者」と評する。
カフカにとっては、書くことが生きることだった。死の床でも、彼は小説の校正刷りに手を入れていたようだ。自分には書くことしかできない、という彼の入り組んだ思いは、せつないほどによく分かる。
お勧めの本:
『カフカの生涯』(池内 紀/白水Uブックス)