連載エッセー「本の楽園」 第6回 フクシマの祈り

作家
村上政彦

 あなたの前にいるのはご主人でも愛する人でもありません。高濃度に汚染された放射性物体なんですよ。

と、原発事故の現場へ急行した消防士の妻は忠告を受けた。夫は14日後に死亡し、2ヵ月後に出産した赤ん坊も被曝していて、4時間で息を引き取った。彼女は、こうした話ができるようになるまで10年間かかったという。

 放っておいてください、みなさん。(中略)あなた方はちょっと話して帰っていくが、私たちはここでくらさなくちゃならない。

と、ある医学者は語る。彼が手に持つ子供たちのカルテには、甲状腺が被曝していることを示す数値が示されている。ほかにも、原発の従業員、科学者、元党官僚、移住者、兵士、子供など、さまざまな声が聴こえてくる。
 苦しみが表現の動機になることは間違いない。苦しいと人は呻(うめ)く。しかし、その苦しみが大き過ぎると、沈黙してしまう。だから、苦しみを共有するためには、苦しみに寄り添い、それに耳を傾ける者の存在が必要だ。
 1986年4月26日、ソ連のチェルノブイリにある原子炉が爆発し、人口1000万のベラルーシ国民のうち、210万人が汚染された土地に住むことになった。『チェルノブイリの祈り』は、この原発事故についてのノンフィクションである。多くの被災者に取材した聞き書きが収められている。

 作者のスベトラーナ・アレクシエービッチは、1948年、ウクライナに生まれた。ジャーナリストとして活動を始め、やがて小説を発表する。2015年にノーベル文学賞を受けた。
 この作品は、安易なステレオタイプの物語を拒む。カオスをカオスのまま表現する。なおかつ、作品として成立させるという隘路をくぐりぬけている。これは方法としてすぐれているばかりでなく、作品の本質にも関わっている。
 読者は、知らず知らずのうちに、被災者の苦しみに共感している。自然にさまざまな声の断片から物語を構築していく。そこに立ち現れるのは、被災者210万人のそれぞれの物語である。
 作者がフォーカスするのは、原発災害そのものではなく、そこに巻き込まれた人間だ。僕らは、苦しみ、迷い、絶望し、それでも生きていく人々の姿を目の当たりにする――これこそ文学の営みではないか。アレクシエービッチの働きのおかげで、僕らはチェルノブイリの苦しみを共有することができる。

 僕らの国でも原発事故は起きた。フクシマである。この土地はまだ、『チェルノブイリの祈り』のような表現を持たない。ある文学者の集まりで、僕は、こう発言した。フクシマから大きな文学が興って欲しい。たとえば、『苦海浄土』のような文学が、と。

『苦界浄土』は、熊本県の水俣病の患者たちを描いた小説だ。水俣病は、工場廃液に混じる有機水銀に汚染された魚介類を摂取することで発症する神経疾患。重症になると、死に至ることもある。1956年5月1日に発見された。
 水俣病を、人命よりもマネーを優先する社会の中で、科学技術によって惹き起こされた病ととらえると、過去の問題ではないし、一地方の問題でもない。現在、世界のどこでも起こり得る出来事なのだ。チェルノブイリ原発の事故とも同じ位相にある。
 作者の石牟礼道子は、1927年、熊本県天草に生まれて、水俣病という文明の病に遭遇した。彼女の文学者としての感性は鋭敏に反応し、この病に苦しむ人々をとらえた。『苦界浄土』という作品の中で、強い訴求力を持つのは、患者やその家族への聞き書きだ。

 たとえば、「ゆき女きき書き」の章。

 うちは情けなか。箸も握れん、茶碗もかかえられん、口もがくがく震えのくる。付き添いさんが食べさしてくれらすが、そりゃ大ごとばい、三度三度のことに、せっかく口に入れてもろうても飯粒は飛び出す、汁はこぼす。気の毒で気の毒で、どうせ味もわからんものを、お米さまをこぼして、もったいのうてならん。三度は一度にしてもよかばい。遊んどって食わしてもろうとうじゃものね。(中略)
 うちゃぼんのうの深かけんもう一ぺんきっと人間に生まれ替わってくる。

 また、「天の魚」の章。

 わしも長か命じゃござっせん。長か命じゃなかが、わが命惜しむわけじゃなかが、杢(もく)※1がために生きとろうござす。いんね、でくればあねさん、罰かぶった話しじゃあるが、じじばばより先に、杢の方に、はようお迎えの来てくれらしたほうが、ありがたかことでございます。寿命ちゅうもんは、はじめから持って生まれるそうげなばってん、この子ば葬ってから、ひとつの穴に、わしどもが後から入って、抱いてやろうごたるとばい。

 驚くのは、この聞き書きのくだりが、実は、フィクションであることだ。ここに、この作品の秘密がある。作者は、想像力によって、患者やその家族の苦しみを生きたのである。想像力によって、みずからの裡(うち)に他者の声を聴き、他者の姿にみずからを視る――これもまた、すぐれて文学的な実践といえる。

 スベトラーナ・アレクシエービッチは、他者の苦しみを聴き取った。石牟礼道子は、想像力によって、他者の苦しみを生きた。アプローチの違いはあるが、他者の苦しみを受け止めるという態度は同じだ。
 チェルノブイリは『チェルノブイリの祈り』を持ち、水俣は『苦界浄土』を持った。フクシマもまた、固有の文学を持つ必要がある。そうしなければ、本当の意味でフクシマの人々の苦しみを共有することができないからだ。
 今年は、フクシマの原発事故から5年目を迎える。この土地の声はだんだん聴き取りにくくなっている。僕らは、よくよく耳を澄まさなければならない。

※1・・・水俣病患者である孫の名

お勧めの本:
『チェルノブイリの祈り 未来の物語』(スベトラーナ・アレウシエービッチ著/松本妙子訳/岩波現代文庫)
『新装版 苦界浄土 わが水俣病』(石牟礼道子著/講談社文庫)
『石牟礼道子全集 不知火 第二巻』苦海浄土第一部・第二部(石牟礼道子著/藤原書店)
『石牟礼道子全集 不知火 第三巻』苦海浄土ほか 第三部・関連エッセイほか(石牟礼道子著/藤原書店)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「猟師のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。