浮ついた願望としての憲法改正論
自民党から憲法改正草案が発表されましたが、これは願望の寄せ集めにすぎないものです。「憲法を改正したい」という願望のみで、内実の伴う草案ではありません。草案と銘打つに値しない粗雑な内容のものです。
大きな政治的決定を国民全体で真剣に論議することなく、なし崩し的に変えてきてしまったことが、これまでもありました。憲法は、そういう扱いではまずいのです。
今の改憲論は、憲法を一般の法律と同じ扱いで処理しようという点で大問題です。というのも国家権力は、非常に大きな、暴力にもなりうる力を内に秘めています。その国家権力をコントロールし、国民の権利を守るのが憲法の役目です。憲法と法律とは、ここが大きく違います。憲法という仕組みで、国民の人権・自由を守っていくという感覚が今の憲法改正肯定論には欠けていると思うのです。
意図的に憲法解釈を変容させる動き
参院選終了後にさまざまな動きがあるだろうと思っていました。そのひとつが、先日の内閣法制局長官の人事として浮かび上がりました。法のプロフェッショナルとして、内閣に憲法問題に関するアドバイスをするに当たって、内閣法制局長官は大きな影響力を有しています。
もちろん憲法解釈権をもっているのは政府ですが、政府による行為の合憲性が確保されるよう、内閣法制局は大きな役割を果たしてきたのでした。政治の恣意性を制御し、ひいては日本の法秩序の安定に寄与してきたのです。長官人事において集団的自衛権行使を容認する人物を任命するというのは、これまでの内閣法制局の在り方を、政権の介入によって大きく変容させるものです。
ここに、現政権が憲法解釈を変化させることで、集団的自衛権の行使を可能にし、実質的に憲法9条改正に等しい状況をつくり出そうという明確な意思を見ることができます。内閣法制局長官人事によって、この隠された真の目的を果たすための一歩が踏み出されたものといえましょう。現政権の本気さの度合いがうかがわれます。
ところが、この点について各メディアがあまり大きく扱っていないのは不思議です。内閣法制局は外から見えにくい存在です。しかし、安全保障の面でも、政策の論理的一貫性を担保する要石として機能してきました。縁の下の力持ちのような存在です。
国会での論戦も前提に、戦後の長い積み重ねのなかで内閣法制局による解釈が形成されてきました。そして、それを歴代政府は閣議決定で正式に認めてきました。そのような実績を、軽々に損ねることがあってはなりません。これまでは政権が勝手な憲法解釈をすることを内閣法制局が事前に抑制してきましたが、その仕組みを意図的に壊そうとしている人事なのです。
憲法96条の改正は論理矛盾だ
憲法96条の改正が話題となっていますが、これは論理上、難しい点を抱えています。というのも、憲法改正手続きを定めた96条を、その96条で改正するというのは、いわば自己言及です。たとえば、2枚の鏡を向かい合わせて合わせ鏡としたらどうなるでしょう。鏡の中の鏡の中の鏡の中の……と、無限のループに入ってしまいます。自分自身の改正の仕方を規定している改正規定の改正の改正についても、同じような現象が発生するのではないでしょうか。これは法論理上、なしえない「限界」の問題ではないかという論点が、昔から学界で存在してきました。
憲法改正規定で改正できる事柄には限界があると、学説で一般に考えられています。よい例は日本国憲法制定です。日本国憲法は、形式上、大日本帝国憲法の改正手続きを経て成立していますが、改正手続きを使って主権の所在を変えることなんて無理なのではないか。そのような問題のゆえに、「8月革命説」が学界の通説なのです。つまり、ポツダム宣言受諾により、主権は国民に移り、そこで法的な意味での「革命」が起こったと説明するのです。同じように、憲法96条により96条を変えるのは、「革命」にも値するような思考なのです。
革命的な変容が正統化されるためには、大きなエネルギーを必要とします。全国民の大論議を経ても可能かどうかという大事業です。それなのに軽やかにも、「やりやすいから、まず96条から変えましょう」という、96条「先行」改正論まで語られているのです。これは、明治憲法の下以来、わが国でなされてきた議論の蓄積を踏まえているとは、とうてい評価できません。96条改正は法論理上、そもそもそれが可能かどうかという深刻な問題をはらんでいるのです。
それに、ごく普通の感覚からしても、憲法改正のルールを変えてしまうというのは、スポーツで自分が勝てるように試合のルールを変えることと同じことで、常識的に見ておかしなことですよね。
集団的自衛権の行使が真の目的
さらに、何のために96条を変えようとするのでしょう。憲法改正条項の改正が目的ではないのは明白で、本当に狙いとする真の目的こそ論議すべきです。
そういうことをきちんとしないのは、政治家が憲法を正しく認識していない証左です。政治家こそが憲法に縛られているのだということを、改めて深く自覚してほしいものです。
政治的な課題としてこれまで鍵となってきたのが、集団的自衛権の問題です。国家安全保障基本法案や新しい防衛大綱の策定は、憲法を改正しなくても集団的自衛権行使を可能にする手法といえます。くわえて内閣法制局長官人事も考え合わせると、憲法解釈によって集団的自衛権行使を可能にするための道筋が整備されつつあることが、容易に推察できます。
憲法改正は大きなエネルギーを要するばかりでなく、連立を組む公明党が賛成しないという事情があるので、実を取り「憲法を改正せずに集団的自衛権行使を可能にしてしまおう」という戦略と見ることもできます。憲法改正は単なる「目くらまし」という可能性もあるのかもしれません。
その意味では、この秋が正念場です。事実を積み上げて、いつの間にか集団的自衛権行使容認を既成事実としてしまい、実質的に自衛隊を国防軍に近い存在とする目論見があるといえるでしょう。興味深いのは、参院選前は、国家安全保障基本法を議員立法で提出することが示されていました。それはこれまでの政府解釈と食い違うため、内閣法制局を通過させられないという前提に立っていたためと思われます。ところが、参院選の大勝を受けて、選挙後には、内閣提出法案とすると変更したのです。
ここで内閣法制局長官人事、国家安全保障基本法、防衛大綱等と、1本の線がつながりそうです。集団的自衛権行使の容認に向けてひた走ろうとしていますが、正攻法は憲法改正なのですから、このような手法は「法の支配」の否定で、蛮行というべきものです。
公明党の存在意義はさらに大きくなる
日本国憲法は、一人ひとりの個人が人格という面において対等であり、自身の人生を自ら選択し決定することができることを保障しているところに、最大の価値があります。この人権、自由は無制限のものなのです。この権利を守るためには仕組みが必要であり、個人の権利を制約する存在として最大のものが国家ですので、その国家権力から国民の権利を守るために、何百年もの時間をかけて人類が模索してきた帰結が、現代の憲法です。
憲法は、権力分立の原理を採用し、国家権力が不当に侵害してはいけない人権を保障しています。そして、憲法の定める手続きで制定された法律が、具体的に私たちの権利義務関係を調整しています。さらに憲法の謳う諸権利は、個人が法律をもってしても対応できない不正義に直面したときに、闘う武器となります。
日本国民は、一人ひとりが大切であるという憲法の考えを、戦後70年近くをかけて血肉としてきたのだと思います。憲法は難しいものではなく、私たちの良識が結実したものです。
憲法をめぐる不穏な情勢の下、公明党の憲法に対する姿勢は貴重です。いよいよ公明党の存在価値が高まっていると思います。大きな節目となるこの秋に公明党が鍵を握っていることは確かです。憲法をめぐる論議では絶対に間違いがあってはなりません。ぜひ、公明党には憲法の理念を守り抜いていただきたいと強く念願しております。
<月刊誌『第三文明』2013年10月号より転載>