今、私たちが宮沢賢治から学ぶこと

法政大学教授
王敏

 支え合う社会の構築に向けて日本人に求められるものとは何であろうか。宮沢賢治研究の第一人者・王敏氏が、日本人が忘れかけている〝日本人〟を語る。

宮沢賢治の不屈の探求心

 情報化社会の中で、現代人は探求心が薄れてしまいました。それどころかあまりにも多すぎる選択肢を前に戸惑いが生じ、目眩を起こしてしまっています。
 宮沢賢治の時代は、ものが少ない時代でした。少ないから選択する力が生まれ、探究心も芽生えます。その点では、ものに溢れた現代と比較した場合、逆に幸せな時代であったといえるかもしれません。
 今のような時代に必要なことは、信念を持つことだと私は思います。言い換えれば目的をしっかりと持つことです。自分が行動していることのすべてが、その目的に合流していくとの意識を持てば、それが信念となっていきます。目的が不明のままでは信念を持つことはできません。
 宮沢賢治にもおそらく信念があったと思います。その信念に基づいて「雨ニモマケズ/風ニモマケズ~サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」というあの有名な詩が生まれたのだと思います。
 その賢治の目的・信念は成し遂げられたのかといえば、そうではありません。賢治は「永久の未完成これ完成である」と書き残しました。答えがすべて用意されていたら、探求する意味はなくなってしまいます。常に問いかけを繰り返し、未回答のままに続いていく。その不屈の探求の精神があるところに求道があり、その求道心こそが賢治の信念であったと思います。

日本人が知らない〝日本人〟

 今、残念ながら日本はある角度から見ると、衰退、堕落していると感じることがあります。なぜなら昔の日本人のように真剣に考え、真面目に働くことや、伝統的な躾・美徳を生活の基盤にするといった姿勢が、衰退しているように感じるからです。
 特に、65歳以上の日本人の方は、そうした今の若い人たちに対して危機感を持っているのではないでしょうか。
 本来、日本には賢治が示したような、世界に誇るべき素晴らしい哲学や感性があります。それらを国内外に向けて発信していくことは大事なことですが、残念ながら今の日本人の多くがその素晴らしい〝日本人〟をよく理解していません。当然、認識がなければ発信することはできません。まず、認識することが大事でしょう。
 一方で、日本は海外の国々から学びながら成長してきた歴史と経験と知恵を持っています。だから今のように、ただ「知識を学ぶ」だけではなく、知恵として学んだことを整理し活用することが大切です。
 犬がいくら猫の真似をしても、猫にはなれないのです。学んだ目的は何なのか。それは猫になるためではなく、もっと立派な犬になるために学ぶからです。
 つまり、日本人としての価値を最大限に発揮していくために、外国から学んできたはずなのです。
 そうでなければ、日本人としての価値そのものを喪失してしまう恐れがあります。

賢治が提示した普遍性に学ぶ

 宮沢賢治の作品には、普遍的なあり方が脈打っています。絆や分かち合うということも『狼森と笊森、盗森』の話などに描かれています。
 東日本大震災の後、宮沢賢治の詩は被災地の方々の支えになりました。経験も体験も賢治の「原風景」のような環境に、突然転換させられてしまった被災地の人たちにとって、無意識のうちに、賢治の生き方はぴったりと符合したのだと思います。
「雨ニモマケズ」にある「イツモシヅカニワラッテヰル」など、賢治の作品には、環境に見合う自己完成を求め、自分に納得をもたらし、自身を達観する「笑い」が多くあります。それは、悟りに通じる深い意味を含んだ「笑い」であり、自然との融合に通じる世界観と生命観によって導かれるものです。
 賢治は、天変地異による自然への畏敬から、自然に学ぶことを習性にすることができました。そして、万物が相互に有機的な因果関係にあることに気が付いたのです。『農民芸術概論綱要』で「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と記述したのは、そのような発見があったからだと思います。
 まさに絆であり、分かち合いの精神にもつながります。
 未曽有の災難に遭っても、秩序立って理性的に思いやりを発揮した人々や、くじけずに復興に立ち上がった人々の姿に、私たちは胸を打たれました。それこそが賢治の作品を貫く「笑い」の再現であると思います。
 日本文化の発信力が問われる今、私たちは、日本文化に根付く、そうした普遍性を提示した宮沢賢治から学ぶべきことは多いと思います。

総合的な視点を持つ重要性

 絆や分かち合うという観点では、創価学会の池田大作名誉会長が結ばれてきた周辺諸国との関係の中にも、絆や分かち合うという姿勢が反映されていると思います。それは中国をはじめ、アジア諸国との関係において、相手国を等身大に見ながら交流する在り方です。
 中国を〝文化大恩の国〟と捉えられた池田名誉会長の視点は、長い歴史の中で培われてきたことを、現在の関係を築く基礎として考え、そして行動へとつながっていきました。今は、そのように考える人が少なくなっているでしょう。余裕がないため、目の前のことだけにとらわれて考えてしまいがちです。
 もしそうした長い歴史を切断し、現時点だけで捉えてしまうと見方は、全く別のものになってしまいます。中国との関係を戦後だけをベースにして考えた場合も同じことがいえます。
 やはり長い歴史観に立った見方をすることで、偏った見方になることを避けることができ、より総合的な視点で物事を見ることができると思います。
 創価学会の皆さんが大切にされている文化の重要性についても、同じことがいえると思います。政治や経済の視点だけではなく、トータルでその国を見ていった場合に文化の存在が浮かび上がってくるのです。
 何をベースにしてものごとを考え、判断するかによって、結果は変わってくるものです。支え合いの基盤となる絆や分かち合いの精神も、ベースとなる信念や目的が、確固たるものでなければ生まれてこないものだと思います。

人間の仕事を思い出す

 宮沢賢治を研究してきた者として、読者の皆さんに申し上げたいことは、飾りもののない、本能的な生物としての人間になりたいということです。本能とは、まさに生命力の尊さを本能的に持つ、生き物としての人間に戻るということです。
 動物には2つの特徴があります。1つは生きるために本能的に生命の機能を調整すること。もう1つは必死に生きることでしょう。
 現代の人は、溢れたものに支配されながら生きています。それは生物ではなく、機械化された物質的な人間だといえましょう。
 本能的な人間とは、ものに左右されない魂を持った人間ともいえるでしょう。今の人間は、機械やソフト、科学や技術、お金などいろいろなものによって、魂が占領されてしまい、分裂現象を持っているように見えます。
 人が支えあって生きていくためには、そういった魂を占領しているものを掃除していかなければいけません。さまざまなものに占領された魂は、いわば女性の厚化粧のようなもので、本来の原風景とは異なったものになってしまいます。原風景に戻る努力が必要です。
 宮沢賢治は、まさにそれを削ぎ落としていった人物だったと思います。そのような賢治の思考性は、彼の作品『注文の多い料理店』にも描かれているとおりです。
 今、人間が人間の本来するべき仕事を忘れてしまっているように感じます。その人間の仕事とは、生物らしく、飾りものを取っていき、素直に生きることだと思います。
 特に若い世代の人には、人間の仕事を思い出し、魂の掃除をしながら、これからの時代を生きていってほしいと思います。

<月刊誌『第三文明』2013年9月号より転載>


ワン・ミン●1954年中国・河北省承徳市生まれ。大連外国語学院大学日本語学部卒、四川外国語学院大学院修了。人文科学博士(お茶の水女子大学)。文化大革命後、大学教員から選出された国費留学生となり、宮城教育大学で学ぶ。現在、法政大学教授。比較研究(社会と文化)と日本研究、宮沢賢治研究が専門。著書に『中国人の愛国心―日本人とは違う5つの思考回路』(PHP新書)、『ほんとうは日本に憧れる中国人―「反日感情」の深層分析』(PHP新書)、『宮沢賢治 中国に翔ける想い』(岩波書店)、『謝謝!宮沢賢治』(河出書房新社)など多数。