初めて入った著者の名前
上皇后・美智子さまの歌集『ゆふすげ』(岩波書店)が、本年1月15日の発売から1カ月で10万部を超えたという。
美智子さまの歌集には、これまでにも上皇さま(当時は皇太子)との共著『ともしび』(1986年/ハースト婦人画報社)、単著としての歌集『瀬音』(1997年/大東出版社)がある。
ただし、それらには「皇太子同妃両殿下御歌集」「皇后陛下御歌集」とあるのみで、作者の個人名が記されていなかった。今回は初めて、この歌集の詠み人である作者の名が「美智子」と記された。
皇室の和歌の御用掛(ごようがかり)で、歌人であり細胞生物学者でもある永田和宏氏は、本書巻末に寄せた「解説」で次のように記している。
もちろんお二人は、わざわざ名前を記さないでも、その歌集が誰のものであるかは一目瞭然です。
しかし、今回、私は著者としての美智子さまのお名前を記すことを、強くお勧めいたしました。「美智子」という名を持った一人の歌人の歌として、皇太子妃、皇后、上皇后などといったバイアスをかけずに、読者の目に届いてほしいとの願いからです。美智子さまの御歌は、そのように読まれてこそ、本来の歌としての輝きを見せてくれる歌であると私は信じております。(本書/永田氏の「解説」)
じつは、今回の歌集の刊行に尽力したのも永田氏だった。永田氏は以前から、〝ひとりの歌人〟としての美智子さまの歌の秀逸さに注目していた。
上皇さまが天皇に譲位されたあと、美智子さまが歌を詠んでいるのかどうか、永田氏は幾度か宮内庁の上皇職に問い合わせをしていたという。やがて、上皇后となってから詠まれているかどうかはわからないが、それ以前に詠まれた歌が多数残っているとの連絡を受けた。
すぐれた歌人である美智子さまの歌が人目に触れることなく歴史に埋もれてはならないと考えた永田氏は、新たな歌集の出版を強く進言したという。
美智子さまは2024年10月20日に卒寿(90歳)を迎えられた。
これを一つの節目として、昭和から平成の終わりまでに詠まれながら、これまで私たちの目に触れることなく眠っていた四六六首の御歌が、歌集『ゆふすげ』としてまとめられますことを、私も一読者として喜ばずにはいられません。(本書/永田氏の「解説」)
収録されたのはご成婚10年の1968(昭和43)年から2018(平成30)年までの御歌。冒頭は、1968年に奄美大島への旅で詠まれたものである。
いち早く木叢(こむら)は萌ゆる緑にて照り葉まばゆき島の昼なか
歌には、各地を訪問した折々の住民との出会い、目に焼き付いた光景のほか、皇太子/天皇という地位を生きる〝夫〟を詠んだものも少なくない。それは、公人としての皇太子/天皇に捧げた歌というよりも、「美智子」という歌人が自分の大切な愛しい人を詠んだ瑞々しさに溢れている。
君と来(こ)し海近き村畦(あぜ)に会いし農婦白菜を見せて笑まひぬ
水打ちて君と朝餉(あさげ)の卓にあれば薄紫のしじみ蝶来る
三日(みか)の旅終へて還らす君を待つ庭の夕すげ傾(かし)ぐを見つつ
歌集の題にもなっている「ゆうすげ」は、ワスレグサ属に分類される黄色い多年草である。「ゆうすげ」を詠んだ歌はいくつもあり、永田氏は美智子さまがお好きな花なのだろうと記している。
自身の一人娘である清子内親王の結婚の折には、母としての思いを次のように詠む。
汝(なれ)を子と持ちたる幸を胸深く今日君が手にゆだねむとする
一方、テーマや言葉遣いの点で「現代短歌」を思わせるようなユニークな歌も折々に詠まれてきた。
京都・宇治の平等院を訪れた際には、
平等院の飛天さながらサーフィンの御姿(みすがた)にして空馳(そらは)せゆかす
と飛天像をサーファーに見立てて詠み、保育園を訪問して〝お店屋さんごっこ〟に加わった折には、次のように詠じた。
子どもらのお店屋さんごつこ渡されし紙幣もて大き指輪を買ひぬ
実感とリアリティのある歌
上皇ご夫妻は皇太子時代も天皇となってからも、外国への親善訪問のほかに、国内外の戦跡を丹念に巡って慰霊を続け、また大きな自然災害が起きるたびに被災地に足を運んだ。
日常にあっても、新聞やテレビを通して国内外の情勢に目を凝らしていた様子が歌にも垣間見える。
サリンとふもの撒かれたる日に聞きしカイツブリの声今も怖るる
これは地下鉄サリン事件から4年を経た1999年に詠んだもの。サリン事件の恐ろしい報に接した日の記憶に、皇居の濠から聞こえたカイツブリの放つ甲高い鳴き声が残っているのであろうか。
サリン事件の起きる少し前の1995年2月、美智子さまは天皇陛下とともに阪神淡路大震災の生々しい被災地を訪ねている。
一帯が焼け野原になり多くの住民が炎に消えた神戸市長田区では、その日の朝に自分が御所の庭で摘んだ水仙を一束、焼け跡にそっと手向けた。
被災地に手向くと摘みしかの日より水仙の香は悲しみを呼ぶ
これは2年を経た1997年の歌。先ほどのカイツブリと同様、歳月が過ぎてもなお傷つき倒れた人々への沈痛な思いは癒えることがないのである。
北朝鮮に拉致され帰国した蓮池薫・祐子夫妻と対面した折には、次のように詠んだ。
言の葉の限り悲しく真向かへばひたこめて云ふ「お帰りなさい」
相手の味わってきた苦しみと悲しみを思えば、もはや労わる言葉さえ見つからない。その言葉にならない万感の思いを込めて美智子さまは「お帰りなさい」と声をかけたのであろうか。
台風接近告ぐる画面に重なりて翁長知事逝去のテロップ流れる
平成の世も終わりに近づいていた2018年8月8日夜、折から台風13号が関東地方に最接近していた。おそらく陛下と美智子さまは、被害を案じながらテレビが伝える台風情報を見ていたのであろう。そこに、翁長・沖縄県知事の訃報のニュース速報が流れたのである。
おふたりは沖縄に心を寄せ続け、多くの書籍を取り寄せ、幾度も足を運んだ。歌集『ゆふすげ』に収録された一番最後の歌も、沖縄への旅を詠んだものである。
年経(ふ)るも全(また)けく生くる人多(さは)に仏桑華咲く島は明るし
仏桑華とはハイビスカスのこと。「島は明るし」には、沖縄の人々の幸せを願う深い祈りが込められているかのようである。
今般の『ゆふすげ』には、1997年の皇后陛下御歌集『瀬音』に含まれなかった歌が収録されている。先述の永田氏は、
それだけに、より率直な思いと、実感とリアリティのある歌が多いように感じられます。(本書/永田氏の「解説」)
本書には、東日本大震災の被災地を詠んだ歌も何首か収録されている。永田氏は「解説」の最後に、震災から3年がたった2014年の御歌を挙げている。
帰り得ぬ故郷(ふるさと)を持つ人らありて何もて復興と云ふやを知らず
いまだ故郷に帰還することのできない人たちがいるなかで、なにをもって〝復興〟と言えるのだろうか――。当時、被災地を励まし社会の空気を変えたいというなかで「復興」という言葉が盛んに叫ばれていた。永田氏は、どこまでも自分の目で現状を見ようとする美智子さまの態度を、この一首に見ている。
皇室の長い歴史上で初めて〝民間〟から妃となった女性。しかし、この歌集からは、そのような立場を踏まえつつ、なお一切の立場を排して、「美智子」という1人の人間の心に映じた豊かな情景が浮かび上がってくるのである。
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