社会の底辺を彷徨う私小説
西村賢太(にしむら・けんた)著/第144回芥川賞受賞作(2010年下半期)
目先の生理的欲望だけを追い求める
新しい文学の形を求めるのが純文学の新人登竜門としての芥川賞のひとつの使命であるがゆえに、ある種実験的な手法を用いる作品が多いことも受賞作品の一面の特色であろう。だからこそ芥川賞は分かりづらいとか、おもしろくないといった評判が多いのも分かる。
だが、西村賢太の受賞作「苦役列車」は、おもしろかった。
主人公は、いわば社会的には最下層の若者だ。父親が性犯罪者となったことがきっかけで地元の街から逃げ出す母子二人。高校進学も諦めて都会の片隅の薄汚れたアパートで一人暮らしをする主人公・貫太は、汗で黒く変色した寝具のなかで寝起きする。彼にあるのは今日だけで、未来など関係ない。日々、目先の食欲と性欲と酒だけを追い求め、今日一日を生き延びるためだけに港湾荷役の日雇い仕事に従事する。家賃滞納と強制退去の繰り返し。
それまでの人生の中でまともな友人関係はなかった貫太だが、職場で一人の専門学校生と知り合い妙に意気投合する。自分の得意とする風俗遊びと飲酒を彼と共有し絆を深めつつあったのだが、二人の生い立ちや生まれ持った性(さが)による壁は高く、二人の関係に亀裂が生じ始める。
なぜ、引き込まれたのか。それは、タイパだのコスパだの効率優先の社会の中で余計なものや余分なものは排除され、わずかな失言や不貞で袋叩きにされるような息苦しい風潮のなかで、人間の汗と欲望と自堕落の生活を自虐的に描いているこの作品からは、失われつつある人間の熱をもった生な感触が伝わってきたからだ。また貫太は、夢も希望もない生活をしながらも、誰か人と繋がろうとする健気な一面もあって、それが決定的な犯罪者の道には進まない愛嬌のようなものを感じさせるのだ。
また、文体がいい。小気味のいいリズミカルな文体は、どこか少し町田康に似ていて、読み手を引き込む。
山田詠美は、選評のなかでこう評価。
本当にやさぐれているのを正確に描写しているのに、『そば』ではなく『おそば』、『刺身』ではなく『お刺身』、『おれ』ではなく『ぼく』。あまりにもキュート。この愛すべきろくでなしの苦役が芥川賞につながったかと思うと愉快でたまらない。
珍しく称賛したのが石原慎太郎。
超底辺の若者の風俗といえばそれきりだが、それにまみえきった人間の存在は奇妙な光を感じさせる。(中略)この豊穣な甘えた時代にあって、彼の反逆的な一種のピカレスクは極めて新鮮である。
一人の作家との出会いが人生を変えた
ただ、読後には何か食い足りない感覚が残る。それは、ただの駄目男が駄目男のままで終わっているからだ。小説は、登場人物に何かが起きて、それが推移し変化しながら、ある結果へと行き着き、その時間経過の中で主人公の中に何かしらの変化が生まれてこそ、読んだ甲斐があるというものなのだが、この作品は最初から最後まで駄目男のまま。もちろんそれ自体が、不条理な人生であっても生きていかなければいけない人間の不条理を伝えているとはいえ、「ここで終わりか」という印象はぬぐえなかった。
髙樹のぶ子はこう指摘。
これほどまでに呪詛的な愚行のエネルギーを溜めた人間であれば、自傷か他傷か、神か悪魔の発見か、何か起きそうなものだと期待したけれど、卑しさと浅ましさがひたすら連続するだけで、物足りなかった。(中略)小説としては『何かが起きる(内的な変化)』のために、このような人物を描いて欲しい気がする
ちなみに、この作品が芥川賞を受賞した時「平成の私小説作家、ついに登場」などと騒がれたのだが、調べてみると確かにこの小説も自らの半生を土台に書かれているようである。父親のことも、風俗通いのことも、家賃滞納と強制退去の繰り返しも事実のようで、なかなか凄まじい人生を送ってきたようだ。
私小説について石原慎太郎はこう述べている。
日本文学の特性の一つは小説の伝統にあるが、かつて上林暁や尾崎一雄が描いた一種の自己露呈に依る人間の真実性の伝統に繋がる、いやむしろ破滅的な自分をさらに追い込み追い込み破滅した田中英光の無残さにも通う、しかしこの作家はどっこい生き続けるだろうが、近年珍しい作家の登場と思われる
余談だが、作者の西村賢太は、2022年、心疾患により54歳の若さで亡くなっている。藤澤清造という作家の作品に23歳の時に出会い、それ以降心酔し、「没後弟子」を自称。藤澤の墓の隣に自らの生前墓を建てるほどだった。社会の底辺を地で行くような波瀾万丈の人生だったが、一人の作家との出会いがその才能を開花させたことを思うと、出会いの力の不思議さを思わざるをえない。
「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』 第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』 第12回『タイムスリップ・コンビナート』 第13回『おでるでく』 第14回『この人の閾(いき)』 第15回『豚の報い』 第16回 『蛇を踏む』 第17回『家族シネマ』 第18回『海峡の光』 第19回『水滴』 第20回『ゲルマニウムの夜』 第21回『ブエノスアイレス午前零時』 第22回『日蝕』 第23回『蔭の棲みか』 第24回『夏の約束』 第25回『きれぎれ』 第26回『花腐し』 第27回『聖水』 第28回『熊の敷石』 第29回『中陰の花』 第30回『猛スピードで母は』 第31回『パーク・ライフ』 第32回『しょっぱいドライブ』 第33回『ハリガネムシ』 第34回『蛇にピアス』 第35回『蹴りたい背中』 第36回『介護入門』 第37回『グランドフィナーレ』 第38回 『土の中の子供』 第39回『沖で待つ』 第40回『八月の路上に捨てる』 第41回『ひとり日和』 第42回『アサッテの人』 第43回『乳と卵』 第44回『時が滲む朝』 第45回『ポトスライムの舟』 第46回『終の住処』 第47回『乙女の密告』 第48回『苦役列車』