『摩訶止観』入門

菅野博史
菅野博史

第78回 正修止観章㊳

[3]「2. 広く解す」㊱

(9)十乗観法を明かす㉕

 ⑥破法遍(6)

 (4)従仮入空の破法遍⑤

 ④空観(3)

 以下、具体的に老子・荘子と釈尊との比較をテキストに沿って紹介する。この箇所は、『輔行』によれば九項目に分類されているので、これにしたがうのが便利であろう。また、解釈についても『輔行』を参照する。ただし、この比較は、智顗の時代までに中国に伝来した仏教の総体と老子の『道徳経』五千文とを比較したものも含まれており、公正な比較とは言えないと思うが、なかには興味深い論点もある。
 第一は「事理不斉(ふせい)」である。老荘と釈尊では、事理について等しくないという意味である。『摩訶止観』には、「諸法の理本もて往きて、常の名、常の道に望むるに、云何んが斉(ひと)しきことを得ん」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、714頁)とある。諸法の理の根本から老荘の永遠の名・永遠の道をながめると、どうして等しいことがあろうか。「諸法の理本」は、仏教の「真如常住の法」、「実相」であり(『輔行』の解釈による)、これは老子の永遠の名・永遠の道とは相違するというものである。
 第二は「教相の不斉」であり、「教相もて往きて望むるに、已に斉しきことを得ず」(同前)とある。仏の教えの様相から永遠の名・永遠の道をながめても、等しいことはありえないというものである。仏教の八万の法蔵を老子の『道徳経』五千文と比較して、このようにいっているのであろう。
 第三は「苦集の不斉」であり、「況んや苦・集を以て往きて検するに、過患は彰露なり。云何んが斉しきことを得ん」(同前)とある。苦諦・集諦によって確かめると、その老荘の過失や憂いははっきりとしているので、どうして等しいことがあろうかというものである。仏教における苦諦・集諦は詳細な煩悩論を含むものであるから、これを老子の身体に対する否定的な評価や欲望を取り除くという思想(※1)と比較して、このようにいっているのであろう。
 第四は「道滅の不斉」であり、「況んや道品(どうほん)を将(もっ)て往きて望むるに、云何んが正法の要に斉しきことを得ん」(同前)とある。仏教の三十七道品から老荘思想をながめると、老荘思想はどうして正法の要に等しいことがあろうかというものである。
 第五は「迹の不斉」であり、次のように述べられている。

 本は既に斉しからざれば、迹も亦た斉しからず。仏の迹は世世に是れ正しく天竺の金輪の刹利(せつり)なり。荘老は是れ真丹(しんたん)の辺地の小国の柱下の書史、宋国の漆園の吏なり。此れは云何んが斉しからん。(同前)

とある。第一の理本の相違がある以上、迹(理本に対応させれば、事迹と表現できる)も等しくないと述べている。具体的な世間的な身分・地位について比較している。仏の迹は、幾世にもわたってまさしく天竺の金輪聖王の刹利(クシャトリヤ)であるのに対して、老子は真丹(中国)の辺地の小国の柱下の書史(周の蔵書室の役人)であり、荘子は宋国の漆園の役人であると指摘している。歴史的には、釈尊もカピラヴァストゥという小国の有力貴族の子にすぎないが、下級役人よりは身分が高いといえるであろう。
 第六は「相好の不斉」である。以下は、原文の引用は省略し、内容の要点を示す。仏は三十二相・八十種好を備えているのに対して、荘子・老子は、身には腫れ物があり小さく醜い凡夫の仲間のようなものであるという比較である。
 第七は「化境の不斉」である。「化境」とは、教化の対象という意味である。仏は法を説くとき、光を放ち大地を震動させ、神々がみな集まって法を聞き、仏は衆生の機に適合して説く。聞く者は聞いてすべて覚りを得る。これに対して老子は周朝にあって、主上にも知られず。群臣にも知られず、一言の直言も戒めもせず、一人も教化することができない。壊れた板車(いたぐるま)に乗って、函谷関(かんこくかん)の西に出て行き、秘密に『老子道徳経』を関所の役人である尹喜(いんき)に説いたにすぎない。荘子は漆園に筆を染めて竹簡に書き記し、文章を添削修治し、『荘子』内・外の篇を作製して、それで有名になることを求めたが、誰がともに荘子の教えを聞き、さらに誰が道を得たのかと批判している。
 第八は「威儀の不斉」である。如来が出かけるとき、帝釈は右におり、梵王は左におり、金剛力士は先に立って導き、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆は後に従い、空を飛んで行く。これに対して、老子は自分で薄い板の青牛の車を操り、函谷関の西に向かって田を作り、荘子は他人に使われて、漆の樹を看守するだけであると批判している。
 最後の第九は「族位の不斉」である。世俗の身分の相違を指摘したものである。如来はきっと転輪聖王となるべき身でありながら、この光栄ある地位を捨てて出家して仏となった。これに対して、老子は函谷関の東で仕えて低い位の役人の職を物惜しみし、函谷関の西で開墾して数畝の田を物惜しみ、これを捨てることができなかったと批判している。
 以上をまとめて、

 盲人は眼無く、汝が説く所を信ず。智慧有る者は、愍(あわれ)みて之れを怪しむ。此の故に当に知るべし、汝が不可説は、是れ絶言の見なり。三仮は具足し、苦・集は成就し、生死は宛然たり。炬(たいまつ)を抱いて自ら焼く。甚だ傷痛(しょうつう)す可し。此の見を破するが若きは、前に説く所の如し、云云。(『摩訶止観』(Ⅱ)、716頁)

と述べている。目の不自由な人は眼がなく、老荘思想を主張する、あなたの説を信じるが、智慧がある者はこれを憐れに思って不思議に思う。あなたの不可説は、これまで述べた誤った絶言の見にすぎず、その見には因成仮・相続仮・相待仮の三仮が備わり、苦・集は成就し、生死輪廻はそのまま備わっているのであり、あたかも松明を抱いて自分を焼くようなものであると述べている。
 以上で、「空観を明かす」段の説明を終えた。すでに述べたように。「空観を明かす」段は、「仮を破する観」、「得失を料簡す」、「見を破する位を明かす」の三段に分かれるので、次は「得失を料簡す」の段である。
 この段では、止観を修行する長所・短所について、四つの場合が示されている。第一に古い惑は除かれないで、新しい惑がさらに生じる場合、第二に古い惑が除かれて、新しい惑がさらに生じる場合、第三に古い惑が除かれないで、新しい惑は生じない場合、第四に古い惑が除かれて、新しい惑は生じない場合である。これについて簡潔な説明があるが、省略する。
 次に、「見を破する位を明かす」の段である。見仮を破る場合の位を、蔵教・通教・別教・円教に応じて簡潔に説明し、それについての問答があるが、省略する。この段の最後に、仮を体得して空に入る止観の意義をしっかりと結論づけるのは、さまざまな見の輪が止まり、一たび不退を受けて、ずっと静寂であることを止と名づけ、見は実体がなく、本性が空であり、様相が空であると理解することを観と名づけると、止と観についてそれぞれ定義している。
 さらに、真諦の理を見ることを、不生と名づける。理は不生である以上、理は同様に不滅である。以上を不生不滅とし、無生忍と名づける。そのうえ、見惑が生じないことを因の不生と名づけ、三悪道の報いの生を受けないことを果の不生と名づける。このように、因果が不生であり、また不滅であることを、無生忍と名づける。以上が、無生門が止観に通じることである。同様に止観が無生門を成立させるといわれる。これで、仮から空に入り、あまねく見惑を破る段の説明が終わった。

(注釈)
※1 『老子』第十三章、「吾れに大患有る所以は、吾れに身有るが為めなり」、同第十九章、「私を少なくし、欲を寡なくす」などを参照。

(連載)『摩訶止観』入門:
シリーズ一覧 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回 第10回 第11回 第12回 第13回 第14回 第15回 第16回 第17回 第18回 第19回 第20回 第21回 第22回 第23回 第24回 第25回 第26回 第27回 第28回 第29回 第30回 第31回 第32回 第33回 第34回 第35回 第36回 第37回 第38回 第39回 第40回 第41回 第42回 第43回 第44回 第45回 第46回 第47回 第48回 第49回 第50回 第51回 第52回 第53回 第54回 第55回 第56回 第57回 第58回 第59回 第60回 第61回 第62回 第63回 第64回 第65回 第66回 第67回 第68回 第69回 第70回 第71回 第72回 第73回 第74回 第75回 第76回 第77回 第78回 第79回(3月25日掲載予定)

菅野博史氏による「天台三大部」個人訳、発売中!

『法華玄義』) 定価各1980円(税込)

『法華文句』) 定価各2530円(税込)

『摩訶止観』) 定価(税込) Ⅰ:2420円 Ⅱ:2970円 ※全4巻予定


かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。