運で全てが決まってよいのか?
現在、高い関心を集めている社会保障政策に「ベーシックサービス」がある。教育、医療、介護、障がい者福祉などのサービスを、全ての人に無償で提供するというものである。
本書『ベーシックサービス:「貯蓄ゼロでも不安ゼロ」の社会』は、提唱者の慶應義塾大学経済学部教授の井手英策氏によって書かれた入門書である。2021年に刊行した『どうせ社会は変えられないなんて誰がいった』(小学館)を大幅に加筆訂正したものだ。
読者一人ひとりに語りかけるような文章で綴られているが、実証的なデータをふまえるだけでなく、歴史学や社会哲学などの成果を幅広く取り入れた議論が展開されているので、本書を読み進めればベーシックサービスだけでなく、我が国の社会保障政策に対する理解も確実に深まる。政治や社会保障に少しでも興味がある社会人や学生にはぜひ手にしてほしい一冊である。
お金による救済は人間の心に屈辱を刻み込みます。(中略)ですから、お金をサービスに置きかえることで、だれかを救済する社会ではなく、みんなが権利として、他者と区別されずに堂々とサービスを使える社会に変えていくべきだと考えたのです。(本書72ページ)
ベーシックサービスという制度を著者が発案した背景には、著者自身の経験がある。母子家庭に生まれ、母と独身の叔母に育てられ、厳しい経済環境のなか苦学し、大学教授になる。しかし、同じような状況におかれた人の多くは進学を断念した。生まれた環境によって人生の選択の幅が決まってしまうのでは、あまりにも不条理である。それだけではない。生きていれば事故にも遭う。突然病気になることも、失業することだってある。運・不運によって人生は大きく左右され、将来への不安に常にさらされる。
また現行の福祉制度は「もらえる人=受益者」と「もらえない人=負担者」の間に線を引き分断を作ってしまう。さらに不正受給などの問題があった場合には、受給者は不信の目で見られることになる。社会全体に他者への不信が広がる原因にもなる。
問題を解決するためには、「弱者を助ける社会」から「弱者を生み出さない社会」へ、「みなが負担者、みなが受給者」になる社会構造の転換が必要となる。こうした考えから、著者はベーシックサービスを提唱したのである。
「共にある社会」の実現へ
他者の存在、他者の価値を肯定する社会は、他者が私という存在、私の価値をみとめる社会でもあります。「共にある」という感覚をもった社会は、他者の価値を大事にすることは自分の価値を大事にしてもらうことに等しいということ、他者の自由が自分の自由と地続きであることを私たちに教えてくれます。(本書123~124ページ)
こうした社会保障制度の導入には、裏付けとなる恒常的な財源が不可欠だ。著者は消費増税を中心に所得税・法人税を引き上げれば、その実現は十分に可能であるという。
さらに著者は、税金に対する発想を大きく転換することを読者に強く促している。わが国では増税、特に消費増税には極端な忌避反応を示す人が多い。その原因は、歴代の政府が税の話から逃げ、借金に頼りながらさまざまなサービスを提供してきたことにある。その体験が国民から税について考え、議論する力を奪ってしまった。また政治家に対する不信は、手元に少しでもお金を残したいという思いと、税に対する漠然とした嫌悪感に結びついたと指摘している。
日本特有の悪弊を乗り越えるには、国民が税の使い途を議論するという、財政民主主義の基本に立ち返らなければならない。ベーシックサービスの導入にあたっても、多岐にわたるサービスから優先するものを決めなければならない。生きていく上で必要な最低限のサービスといっても、何が最低限なのかという議論を避けて通ることはできない。こうした熟議は自分と境遇がちがう人について考える力を磨き、多様な人が同じ社会で「共にある」「共に痛みを分かち合う」という実感を生み出していく。
また著者が財源を論じる際、消費増税を中心的にとりあげるのには大きな理由がある。ひとつには、増税に関する議論を読者に理解してもらうには、消費税を用いるのが分かりやすい点。もうひとつは日本で共に暮らす外国籍の人たちも日常的に買い物をしていれば、納税者となり、ベーシックサービスを受けられるからである。ここにも著者の考えが色濃く反映されている。
政治家には責任ある言論を求める
もし、税を前提にしないなら、こんな話しあいは、一切いらなくなります。好きなものを好きなだけ、しかも税金をはらわずに、手に入れることができるのですから。その意味でMMT(現代貨幣理論、※評者注)を利用した政治主張は、政治の、民主主義の自殺行為なのです。(本書160ページ)
ベーシックサービスに関して、現在の日本政治でも議論が開始されている。
政権与党の一角を担う公明党は2022年9月の党大会で、ベーシックサービスはあらゆる人間の尊厳を守る「大衆福祉」という党の理念と強く共鳴するものであると位置づけ、その実現へ向けた議論を行っている。また、野党の立憲民主党、国民民主党も基本政策に取り入れている。
だが、著者は政治家の発言を耳にするたび、悲しみにかられるという。本来、著者が提唱したベーシックサービスは財源論と一体であったにも関わらず、ほとんどの政治家はそれに触れないからだ。本書の増補改訂に踏み切った理由のひとつもここにある。(なお、著者の井手氏は、月刊誌『潮』2025年1月号において、公明党のみが財源論を明示するなど、ベーシックサービスを福祉政策の中核に据えていることを評価していることを付記しておきたい。)
とくに野党は消費減税を声高に訴えている。ましてMMT理論(現代貨幣理論)というこれまで実証されたことのない仮説を振りかざし、赤字国債を刷って、国民に現金を配れば景気回復するなどの極論を展開する政党すらある。右派も左派も選挙民の歓心を買うことしか口にしない。
物価高の進行する現在の日本で、減税を繰り返せば円安がさらに進行し国民の生活が困窮することは、火を見るよりも明らかだ。また赤字国債をいくら発行しても経済が破綻しないという理論は、いまだ実証されていない仮説である。さらに現金給付に重きを置けば、税金の使い途を国民が監視し決めるという財政民主主義の基盤を掘り崩し、国会予算委員会の存在すら危うくする。著者はこれを「民主主義の自殺行為」と断じている。
こうした状況だからこそ、国民の政治監視と共に政治家の在り方がより重要性を増している。明確なヴィジョンを示し、自身が良いと考える政策に関しては議論を喚起し、ときには丁寧に説明をすることが求められている。勇気と見識、行動力と言論力を併せ持つ政治家の登場こそ、日本の国民は待ち望んでいるはずだ。著者の言葉どおり「希望は人間」なのである。
『ベーシックサービス:「貯蓄ゼロでも不安ゼロ」の社会』
(井出英策著/小学館/2024年4月1日刊)
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