『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第77回 正修止観章㊲

[3]「2. 広く解す」㉟

(9)十乗観法を明かす㉔

 ⑥破法遍(5)

 (4)従仮入空の破法遍④

 ④空観(2)

 次に、絶言を破ることについて、絶言は四句(自生・他生・共生・無因生)の外に出るといっても、十種の四句があるので、どの四句の外に出るのかと問い詰めている。十種の四句の意味については、

 十種とは、一往の四句、無窮(むぐう)の四句、結位の四句、襵牒(しょうじょう)の四句、得悟の四句、摂属(しょうぞく)の四句、権実の四句、開顕の四句、失意の四句、得意の四句なり。
 一往の四句とは、凡・聖は通途に皆な四句を論ず。此の意は知る可し。
 無窮の四句とは、四四爛漫として無貲(むぜい)なり。四十八番の中に其の相を示すが如し、云云。
 結位の四句とは、四句を分斉(ぶんざい)して、是非を剋定(こくじょう)す。単・複・具足等の住著の亡ぜざるが如きは、即ち凡夫の四句なり。若し句義無きを句義と為さば、是れ聖人の四句なり。
 襵牒の四句とは、凡夫の四句を結して、牒(じょう)して有の句と為し、二乗を牒して無の句と為し、菩薩を牒して亦有亦無の句と為し、仏を牒して非有非無の句と為す。
 得悟の四句とは、句に随って入る処は、即ち悟入の門と成れば、四句は即ち四門と成る。
 摂属の四句とは、諸句の門に随って、何れの法に悟入するや。法を以て之れを分け、諸の法門に属するなり。
 権実の四句とは、諸法の四句の門は、三の四を権と為し、一の四を実と為す。
 開顕の四句とは、一切の四句を開いて、皆な一実の四句に入る。若し一実の四句に入らば、皆な不可説なり。仏の教の四句は、此れに斉(かぎ)る。
 失意の四句とは、仏の四句を執して、諍競(じょうきょう)を起こす。過は凡夫に同じ。
 得意の四句とは、菩薩は失意の過を見、小・大の論を作って、仏の両の四句を申べ、執を破し迷いを遣(や)らば、則ち得意の四句有り、論を作るの功は息(や)む。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、711-712頁)

と述べられている。一往の四句とは、凡夫・聖人は、通常論じられる四句である。無窮の四句とは、四句のなかに四句があって計算することができないといわれる。結位の四句とは、四句を区分して是非を判定することで、単・複・具足などの固着がなくならない場合は、凡夫の四句であり、四句の意義のないことを四句の意義とすれば、聖人の四句であるとされる。襵牒の四句とは、凡夫の四句を結んで、提示して有の句とし、二乗を提示して無の句とし、菩薩を提示して亦有亦無の句とし、仏を提示して非有非無の句とするといわれる。得悟の四句とは、四句にしたがって入る場所が、悟り入る門となれば、四句は四門(有門・無門・亦有亦無門・非有非無門)となるといわれる。摂属の四句とは、四句・四門にしたがって、法によってこの四句を区別して、四門に所属するといわれる。権実の四句とは、さまざまな法の四句の門は、蔵教・通教・別教の三種の四句を権とし、円教の一種の四句を実とするといわれる。開顕の四句とは、すべての四句を開きあらわして、すべて一実の四句に入らせ、もし一実の四句に入れば、すべて不可説であるといわれる。ここまでの四句が仏の教えの四句である。
 失意の四句とは、仏の四句に執著して、争いを起こすことで、過失は凡夫に同じであるといわれる。得意の四句とは、菩薩は失意の過失を見て、小乗・大乗の論を作って、仏の別教・円教の二つの四句について述べ、執著を破り迷いを捨て去る場合は、得意の四句があり、論を作る働きはなくなるといわれる。
 次に、詳しく老子・荘子と釈尊とを比較して、仏教の立場から老荘思想を批判している。興味深いので、以下、紹介する。はじめに智顗の時代の思想的情況として、次のように指摘されている。

 今、世に多く悪魔の比丘有りて、戒を退いて家に還り、駆策(くさく)を懼畏(くい)して、更に道士に越済(おっさい)す。復た名利を邀(もと)めて、荘老を誇談す。仏法の義を以て、偸(ぬす)みて邪典に安(お)き、高きを押して下(ひく)きに就け、尊きを推して卑しきに入れ、概して平等ならしむ。道の道とす可きは、常の道に非ず、名の名とす可きは、常の名に非ざるを以て、仏法の説示す可からざるに均斉(ひとし)くす。虫の木を食いて、偶(たま)たま字を成ずることを得るが如し。道理を検校(けんぎょう)するに、邪正は懸かに絶す。愚者の信ずる所、智者の蚩(わら)う所なり。何となれば、前に説く所の諸の生、諸の不生、諸の四句、諸の不可説の如きは、汝は尚お単の四句の外の不可説にすら非ず。何に況んや複の外、何に況んや具足の外、何に況んや犢子をや。尚お犢子にすら非ず。何に況んや三蔵・通・別・円をや。(『摩訶止観』(Ⅱ)、713-714頁)

と。智顗の時代には、仏教の戒から退いて世俗の家に帰り(還俗すること)、仏教と道教(※1)の境界を踏み越えてあらためて道士となる者がいた(※2)。さらに名誉利益を求めて、荘子・老子の思想を誇らしげに語り、仏法の理論を、盗んで外道の邪な典籍のなかに盗み入れ、高いものを低いものに押し下げ、尊いものを卑しいものに引き入れ、外道と仏教をならして平等にさせた。『老子』第一章の「道の道とす可きは、常の道に非ず、名の名とす可きは、常の名に非ず」という言葉を、言葉で説き示すことができないという仏教の思想と等しいと考えた。老子の言葉の意味は、一般に道とすることのできるような道は、永遠の道ではなく、道の名とすることのできるような名は、永遠の名ではないというものである。
 これは虫が木を食って、たまたま文字を作ることができるようなものである。この比喩も智顗が好んで用いるものである(※3)。このように老荘思想を仏教と等しいと誇ってみても、このような低級な思想は、これまで説明してきたさまざまな絶言の見の水準にも到達していないと批判している。(この項、つづく)

(注釈)
※1 老荘思想と道教は区別しなければならないが、ここではその区別は問題となっていない。
※2 智顗は、北周武帝(在位560-578)の廃仏に暗躍した還俗僧、衛元嵩(生没年不詳)を、仏法を滅亡させる妖怪であると厳しく批判している(大正46、19上7~8を参照)。
※3 『南本涅槃経』巻第二、哀歎品、「是の時、客医は復た王に語りて言わく、王よ、今、応に是の如き語を作すべからず。虫の木を食らうに、字を成す者有るが如し。此れは是れ字なるや、字に非ざるやを知らず。智人は之れを見て、終に唱えて是の虫は字を解すと言わず、亦た驚怪せず。大王よ、当に知るべし。旧医も亦た爾り。諸病を別たず、悉ごとく乳薬を与う。彼の虫道、偶たま字を成すことを得るが如し」(大正12、618中1~6)を参照。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。