世界市民として生きる
著者の高階秀爾氏は日本における西洋美術史研究の第一人者として知られる。専門はルネサンス以降の西洋美術史だが、日本美術や文学にも造詣が深く、著書や翻訳も多数ある。美術行政にも携わり国立西洋美術館をはじめとする要職も歴任し、昨年10月に逝去した。本書は、1972年から翌年にかけて著者が雑誌『自由』に連載したエラスムスの評伝をまとめたものである。
デジデリウス・エラスムス(1466年もしくは1469年頃~1536年)はルネサンス期を代表する思想家、人文学者として知られている。だがその名声とは裏腹に、幼少期は決して幸福なものではなかった。
オランダの聖職者の庶子としてこの世に生を受け、幼少期に伝染病によって両親を失う。長じて修道士となり、はじめは古典学に通暁した文学者として、次いで神学者として頭角を現した。宮廷文化人として生計を立てヨーロッパ各地を転々とし、生涯にわたって1か所に留まることはなかった。当時の知識人の共通言語であるラテンを使いこなし、名実ともに世界市民として生きたのである。
特にイギリスに滞在中に結んだトマス・モアとの友情や神学者コレットとの出会いは、後に彼に大きな影響を与えた。
暗い出生の影に加えて、早く両親を失い、生涯結婚もしなかったエラスムスにとって、モアの家は余所(よそ)では得られないあたたかい家庭的な雰囲気を与えてくれた。しかも、多くの豊かな知的刺激にも欠けていなかったモアの家庭は、まるで「プラトンのアカデミア」のように思われたとエラスムスは語っている(本書84ページ)
「ユートピア」という言葉の語源ともなった風刺小説の著者として知られるモア。深い学識と常にユーモアを忘れない彼の姿に、エラスムスは人文主義者の理想的な姿を認め友情を深めていき、時を置かずして肝胆相照らす仲となる。
また、コレットとの出会いは、これまでラテン語を中心に文学者として活躍していたエラスムスに、神学とギリシャ語へ目を開かせるきっかけとなった。
こうした人々との出会いが生み出した精神的触発が、後に「北方ヒューマニズムの王者」と称えられた大知識人へとエラスムスを成長させていったのである。
悪しき聖職者を痛烈に批判し、平和を擁護する
エラスムスは『痴愚神礼讃』において、鋭い人間観察と深い人間への理解にもとづいて、その華麗な文才を思い切って展開してみせたとすれば、『平和の訴え』は、彼がその卓越した筆力によって自己の思想を明確に表現したものと言うことができるであろう。(本書166ページ)
エラスムスの代表作『痴愚神礼讃』も、他ならぬモアとの友情から生まれた。
ローマ滞在中、目の当たりにしたバチカンの聖職者の姿に心を痛めた彼は、親友モアの邸宅に逗留し、手元に資料がないにも関わらず、一気呵成にこの作品を書き上げたといわれている。また題名もモアの名前のラテン語名からとられたともいわれている。
『痴愚神礼讃』は、痴愚の女神が世に満ち溢れる愚かな行為を礼賛するという内容である。そこには老若男女を問わず、社会のさまざまな階層の人たちが描かれている。笑いに満ち溢れ、全体として人間に対する深い理解を示す作品であるが、腐敗堕落した聖職者に対する風刺は辛辣を極める。自身聖職者であるエラスムスであるが、当時の形骸化した教会の在り方には、ユーモアを武器に鋭い批判を浴びせかける。
後に歴史家ヨハン・ホイジンガはこの作品をエラスムス最良の著作と位置付けた。
ドイツでルターが宗教改革の火ぶたを切った1517年、エラスムスは『平和の訴え』を著す。この著作でエラスムスは、戦争批判をしただけでなく、平和を実現するための教育の重要性を説き、宗教戦争の愚かさを戒めるなど、現代にも通じる議論を展開している。現代では、カントを始めとする哲学者が書いた「平和論」の嚆矢として位置づけられている。
孤立を恐れず、信念を貫く
彼は双方の側からの非難を十分承知の上で、あえて党派性を斥けて自己の精神の自由のために中道を選び取ったからである。一五一九年のメダルの裏に彫り出された「我、何者にも譲らず」のモットーは、彼のそのような不退転の決意を物語るものではないだろうか。そしてそのメダルを友人たちに贈り物として配ったのは、彼にとって、いわば無言の信条告白ではなかったろうか。(本書18ページ)
ヨーロッパ屈指の知識人として地位を確立したエラスムスであったが、晩年の彼は極めて厳しい状況に立たされた。ときあたかもルターの宗教改革の影響が西欧を覆い始め、宗教的にも政治的にも分断の時代が始まり、党派的憎悪が西欧全土に蔓延していた。
ルターの側に立つのか、カソリックの側に立つのか。双方からエラスムスは選択を迫られる。しかし、彼はどちらかの側に着くことも頑なに拒否し、カソリック内部からの改革を目指した。『自由意志論』を著しルターと神学的に対決した際も、言論では厳しい批判を加えてはいるが、相手の発言の自由を擁護するという姿勢を貫いた。そうした態度は、周囲からという激しい反発を巻き起こした。ルターは「両棲類の王」と罵り、カソリックの側からは「異端者」と断じられ、後世の歴史家からは「臆病者」と評される。しかし著者はそこにエラスムスの信念を見いだす。
エラスムスが生涯をかけて貫いた信念とは何か。著者によれば「ヌース、すなわち精神または知性の力」であり「ロゴス、すなわち理性」への信頼であるとする。しかも、そうした精神的な力はキリスト教徒だけではなく、異教徒も含めた全ての人間に遍く具わっているとするところに彼の独自性はある(彼は「聖ソクラテス」と書き残している)。
また、人間は神などの絶対的真理を全面的に捉えられないとしつつも、人間の社会における真理は相対的なもので、多くの人々が検討することによって徐々に明らかになるものであり、常に暫定的なものでありつづけると位置づけた。こうした考えが対話を重んじる寛容の精神へとつながり、戦争を批判し、社会の漸進的な発展を志向する中道主義へと彼を導いたのだ。
親友トマス・モアは死刑に処され、文通もままならぬほどの孤立を強いられるなど、晩年のエラスムスは多くの悲劇に見舞われた。しかし、「我、何ものにも譲らず」というモットーのままに、彼は自身の信念を生涯にわたり貫いたのである。
平和な時代に平和を訴えることは容易い。だが憎悪と分断に満ち溢れた世界で訴えることは極めて難しい。しかしそうした状況にも関わらず貫かれた信念は、時代の闇が深まれば深まるほど不滅の光を放っていく。
エラスムスの生涯は、困難な時代状況を生きる人々の胸に勇気の炎を送り続けている。
『エラスムス 闘う人文主義者』
(高階秀爾著/筑摩選書/2024年1月15日刊)
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