第72回 正修止観章㉜
[3]「2. 広く解す」㉚
(9)十乗観法を明かす⑲
⑦別して安心を明かす(2)
(4)信行の安心のための八種の方法
次に、信行の人の心を法性に安んじる八種の方法について説明している。八種の方法とは、止と観にそれぞれ四悉檀があり、合わせて八種となる。テキストの引用は省略し、内容について簡略に説明する。
②禅定が不足して心が散乱している者に対して、巧みな方便、さまざまないわれ、比喩によって、広く止をほめたたえ、その善根を生じることを、便宜にしたがって(随便宜=為人悉檀)止によって心を安んじることと名づける。
③散乱した心は悪のなかの悪であるが、偉大な禅定は心が狂って落ちつきのないことを静めることができる。巧みな手段、さまざまないわれ、比喩によって、広く止をほめたたえ、眠くて心が散乱していることを破ることを、対治にしたがって(随対治=対治悉檀)止によって心を安んじることと名づける。
④心がもし禅定の状態にあれば、世間の生滅する法の様相を知り、また出世間の生滅を超えた法の様相を知る。如来が覚りを完成させる場合ですら、なお禅定を願ったのであるから、まして凡夫たちはなおさらである。巧みな手段、さまざまないわれ、比喩によって、広く止をほめたたえ、すぐに真如に合致することを、第一義にしたがって(随第一義=第一義悉檀)止によって心を安んじることと名づける。
⑤愚かで法を聞くことがない苦のある者に対して、巧みな手段、さまざまないわれ、比喩によって、観を広くほめたたえ、その気持ちを喜ばせることを、願望にしたがって観によって心を安んじることと名づける。
⑥一切種智は、観を根本として、限りない功徳によって飾られる。巧みな方便、さまざまないわれ、比喩によって、広く観をほめたたえ、その功徳を生ずることを、便宜にしたがって観によって心を安んじることと名づける。
⑦智者は怨敵を知っているので、怨敵も害することができない。巧みな手段、さまざまないわれ、比喩によって、広く観をほめたたえ、信行の人が悪を破るようにさせることを、対治にしたがって観によって心を安んじることと名づける。
⑧智慧の眼によって、諸法の実相を観察して知る必要がある。すべての法のなかには、みな平等の観察によって入る。般若波羅蜜はもっとも優れた照明である。巧みな方便、さまざまないわれ、比喩によって、広く観をほめたたえ、覚りを得させることを、第一義にしたがって観によって心を安んじることと名づける。
以上が信行の者に対する八種の安心の方法である。
(5)法行の安心のための八種の方法
次に、法行の者に対しても、八種(止と観のそれぞれに四悉檀の方法がある)の方法が説かれる。順に説明する。
②止は法界であり、公平正直な良田であり、すべての法(六波羅蜜、方便、願、力、智)を備えている。止が一切法を備えていることが、秘蔵にほかならない。巧みな方便、さまざまないわれ、さまざまな比喩によって、善根を生じさせることが、便宜にしたがって止によって心を安んじることである。
③止は大慈であり、怨敵と親しい者をともに憐れみ、怒りを破ることができる。止は大明呪(般若波羅蜜)であり、愚かさと疑いはすべて捨て去られる。止は仏であり、覚りを妨げるもの(煩悩)を破り除く。巧みな方便、さまざまないわれ、さまざまな比喩によって、悪を破らせることを、対治にしたがって止によって心を安んじると名づける。
④止は仏の師であり、仏の身であり、仏の眼であり、仏の姿であり、仏の教えの蔵であり、仏の住む場所である。巧みな方便、さまざまないわれ、さまざまな比喩によって、詳細に止をたたえることが、第一義にしたがって止によって心を安んじることである。
⑤七覚分(念・択法・精進・喜・軽安・定・捨)のなかに択覚分があり、八正[道]のなかに正見があり、六度(六波羅蜜)のなかに般若波羅蜜があって、法門のなかにおいて中心的で、指導的なものである。ひいては成仏の正覚・大覚・遍覚はすべて観慧(観察する智慧)の別名であり、観慧が最も尊くすばらしいと知るべきである。このように詳細にたたえる。以上が願望にしたがって観によって心を安んじることである。
⑥もし観を熱心に修行すれば、信・戒・定・慧・解脱・解脱知見を生じることができ、病を知り薬を知り、教化が大いに行なわれ、多くの善がすべて集まるという点では、観よりすぐれているものはない。以上が便宜にしたがって観によって心を安んじることである。
⑦観は闇を破ることができ、道を照らすことができ、怨敵を除くことができ、宝を得ることができ、邪な山を傾け、愛(思惑)の海を尽くすことは、すべて観の力である。以上が対治にしたがって観によって心を安んじることである。
⑧観によって、法を観察するとき、能観(観察する主体)・所観(観察の対象)を実体として捉えない。心の思慮が障礙なく通じ、おぼろげに開こうとすれば、ただ熱心に観をなして、仏知見を開示悟入するべきである。以上が第一義を用い観によって心を安んじることである。
以上が法行の者に対する八種の方法である。
(6)その他の問題
次に、信行と法行の機根が固定的ではなく、たがいに転換する場合のあることを指摘している。
これまでが、他人に教える場合の説明であったが、次に自分で行なう場合について説明している。これにも、法行、信行について、それぞれ八種の安心の方法が説かれている。説明は省略する。
さらに、信行と法行がたがいに助け合う場合がある(信行が法行を助ける場合と、法行が信行を助け場合とがある)ことについて述べている。これも説明を省略する。
最後に、結論的に、
夫れ心地は安んじ難し。違(たが)えば苦しみ、順ずれば楽しむ。今其の願う所に随って、遂(お)いて之れを安んず。譬えば生を養うに、或いは飲み、或いは食べて、身に適して命を立つるが如し。法身を養うことも亦た爾り。止を以て飲と為し、観を以て食と為す。薬法も亦た爾り。或いは丸、或いは散、以て冷熱を除く。無明の病を治するに、止を以て丸と為し、観を以て散と為す。陰陽の法の如き、陽は則ち風日、陰は則ち雲雨にして、雨多くば則ち爛れ、日多くば則ち焦(こ)ぐ。陰は定の如く、陽は慧の如し。慧・定の偏なる者は、皆な仏性を見ず。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、630頁)
と述べられている。心の境地は安んじることが難しいことを踏まえ、止を飲み物とし、観を食べ物として慧命を養うことを述べている。また、これまで説明してきたように、善巧安心の方法について詳細に説明がなされていた理由について、
一目の羅は、鳥を得ること能わざるも、鳥を得る者は羅の一目なるのみ。衆生の心行は、各各同じからず。或いは多人にして同一の心行なり。或いは一人にして多種の心行なり。一人の為めにするが如く、衆多も亦た然り。多人の為めにするが如く、一人も亦た然り。須らく広く法の網の目を施して、心行の鳥を捕うべきのみ。(『摩訶止観』(Ⅱ)、632-3頁)
と述べられている。つまり、一目の網は鳥を得ることができないけれども、鳥を得るのは、網の一目だけである。衆生の心行(心の働き)はそれぞれ同じではない。したがって、広く法の網の目を施して、心行の鳥を捕らえる必要があることを指摘している。
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