怒りは善悪に通じる
著者アルン・ガンジー氏(1934-2023)はインド独立の父マハトマ・ガンジーの孫であり、その思想を受け継ぎジャーナリストや社会活動家として活躍した人物である。
本書は、祖父から受けた教えの要点を11にまとめ、一般の読者に向けて分かりやすく論じたものだ。また本書はガンジーを偉人ではなく、生活者、優しいおじいちゃんという身近な視点から描いている。その意味でガンジーの思想と人物を学ぶうえで最良の入門書であろう。
「怒りは、車のガソリンのようなものだ。怒りがあるおかげで、人は前に進むことができるし、もっといい場所に行くこともできる。怒りがなければ、困難にぶつかったときに、なにくそという気持ちで立ち向かうこともできないだろう? 人は怒りをエネルギーにして、正しいことと、間違ったことを区別することができるんだよ」(本書28ページ)
アルン氏が生まれ育った当時、南アフリカでは希代の悪法アパルトヘイト(人種隔離政策)が実施されていた。彼は幼少期、白人からは肌の色が黒いと差別され、黒人からは肌の色が薄いと差別され、肌の色が原因でリンチまがいの暴行を2度受けた。アルン氏の心は憎悪で満たされ、復讐のためにウエイト・トレーニングを始めたという。
両親は息子の姿に心を痛め、状況を改善するためにはインドに住む祖父のもとに預けることが良いと判断する。こうして12歳から14歳までの2年間、アルン氏はインドのガンジーのもとで生活をした。
「怒りはどうすれば克服できるのか?」あるときアルン氏は祖父に質問した。それに対する答えは意外なものであった。「わたしはいつだって怒っているんだよ」と。社会の不正や悪に対して人間が怒りを感じるのは当然である。しかし怒りを正しく使うことが重要だ。そのためは自分の怒りの対象を明確にし、さまざまな視点から見つめる必要がある。祖父は優しく諭しながら、孫に日記を付けることを勧めたという。
一般的にガンジーは聖人然とした人物だと思われることが多い。しかし彼の心のなかには悪に対する怒りが常にあった。その力を分断や憎悪ではなく、不正をただし、平和を生み出す原動力へと変えた。そこに彼の偉大さがある。祖父と孫の心温まるエピソードのなかにガンジー思想の心髄が垣間見える。
子どもに残せる最大の遺産は価値観
多くの人は、自分が死ぬときに、何か物質的なものを遺産として家族に残す。お金や家、ダイヤの指輪などだ。しかし、「価値観」も立派な遺産になる。(本書194ページ)
ガンジーは自らが推進する運動を「サッティヤーグラハ=真実のための断固とした態度」と名付けた。彼は自身の思想を人々に語るだけでなく、身をもって実践する率先垂範の人であった。
お菓子ばかり食べる子どもの偏食を諭すためであれ、宗教間の対立を解決するためであれ、自身の主張を行動によって人々に伝えた。その姿への共感がインド独立の大きな原動力となったのだ。こうしたガンジーの姿勢は現代の教育にこそ取り入れられなければならないだろう。
多くの人は子どもに社会的立場や財産を残そうとする。しかし物質的な遺産は時と共になくなるし、立派な学歴が幸福な人生を約束するわけではない。親が子どもに残すとこのできる最大の財産は価値観である。自身の経験をもとにアルン氏は言う。
親から子へと受け継がれた価値観は、将来、必ず大きな実を結ぶ。さらに次世代へと影響をあたえる。だからこそ、子どもを教育する人は、ガンジーと同じように子どもに向き合い尊重し、正しい価値観を自身の姿を通し示すべきである。こうした指摘は現代の学歴偏重社会の盲点をつくだけでなく、より良い社会を実現するための教育の重要性を再確認させてくれる。
憎悪を乗り越え、祖父の大義を受け継ぐ
暗殺されるわずか一週間前、記者から「あなたが亡くなった後に、あなたの思想はどうなると思いますか?」と質問されると、祖父は深い悲しみをたたえてこう答えた。
「人々は生きている私に賛同し、死んだ私を崇拝するが、私の大義を自分の大義にすることはないでしょう。」
私たちは今ここで、ガンジーの大義を再び自らの大義にしなければならない。(本書12ページ)
ガンジー暗殺の一報を耳にした際の心情が綴られている場面は、本書でもっとも心が痛む箇所だ。怒りに我を忘れたアルン氏は、両親に対して暗殺犯への憎悪と殺意を口にする。しかし、その感情を克服できたのは祖父から教わった非暴力の思想であったという。深い悲しみと怒りを仕事へのエネルギーに変え、当時、両親と発刊していた新聞『インデアン・オピニオン』で100ページにわたる追悼特集号の紙面を作成した。
その後の人生でも、大きな困難に遭うごとに、祖父の理想に立ち返り、乗り越えてきたことは本書の随所で述べられている。
ガンジーが生涯をかけて残したメッセージの要諦は、どんな人でも周囲を変える大きな力が具わっている。また人生の本当の喜びは、戦うこと、挑戦すること、そのために苦しむことにあるのであり、勝利の中にあるのではない、というものだ。
周囲から実現の見込みのない理想だと嘲笑されても、差別なき平和な社会を目指し、自身の精神と社会の変革に取り組むところに、ガンジーの思想は生き続ける。
アルン氏が語るように、思想の継承と形式的崇拝はことなる。師の掲げた大義を受け継ぎ、自身が置かれている状況下で実現しようと忍耐強く奮闘する。その挑戦のなかにこそ真実の師弟継承の道があり、ドラマがある。
『おじいちゃんが教えてくれた 人として大切なこと』(アルン・ガンジー著、桜田直美訳/ダイヤモンド社/2024年6月11日刊)
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