書評『ネットリンチが当たり前の社会はどうなるのか?』――忍び寄る全体主義の罠に警鐘をならす

旧統一教会とホスト問題の共通点

 著者は、政治思想やドイツ文学を専門とする研究者で、現在は金沢大学の教授を務めている。また難解な古典を分かりやすく読み解くことでも定評がある。本書は2020年から2024年まで雑誌に不定期に掲載していた論考をまとめたものだ。
 本書が執筆された4年間は、激動の時代であった。新型コロナウイルスの世界的な流行から始まり、安倍元首相の暗殺や旧統一教会問題など、大きな問題が次から次へと噴出していた時期である。それらの問題に対して、著者は政治哲学の古典や現代思想をふまえた独自の着眼点から切り込んでいる。

 政治を巻き込んで国を挙げての大騒動に発展した、今年(二〇二三年)の二大社会問題といえば、統一教会問題とホスト問題であろう。宗教と風俗という全く異質な領域に属するように思える両者だが、実は、一番中核にある問題は共通している。(本書44ページ、本文ママ)

 旧統一教会とホスト売掛金問題は一見すると関係のない問題に思えるが、個人の「自由意志」「自己決定権」の問題であるという点では共通している。さらに、被害者はまともな判断ができない状態に置かれマインドコントロール(MC)され、多額の金銭を支払ってしまったとする点も同じである。だがマインドコントロールには学術的な定義がない。こうした曖昧な言葉をもとに判断の正常・異常を決めてしまうと、都合の良い時にマインドコントロールを持ち出して契約の無効を訴えることが可能になってしまう。
 宗教や風俗業に対する偏見も共通しているのではないか、と著者はさらに指摘する。両者に共通するのは経済的合理性とは違う行動原理を持つ点だ。こうした人たちは合理的判断のできない下等な人間だと、多くの日本人はどこかで思っていないだろうか。事件当事者の意見を検証することなく、マインドコントロールされた人たちだからと見下す。こうした考え方は「自由意志」と「自己決定権」を侵害しているといわざるを得ない。宗教者が政治に関わるのは政教一致であるという根拠なき暴論を平然と述べる人がいるのも、こうした蔑視によるものだろう。

これでいいのか大学教育

 そうした意味では無駄なことをやっているわけで、単なるバカげた話かもしれないが、私はこうした無駄なパターナリズムの背後にある「人間」観に注目したい。文科省や大学は、学生を、自発的に行動するがゆえにどう働きかけたらどう反応するか分からない主体ではなく、機械的な操作によってバグを修正して、正常に機能させることのできるアプリとかゲームのキャラのように見ていると思える。(本書170ページ)

 教育者である著者は、日本の大学教育にも疑問を呈している。
 未熟な子どもは自己決定することが難しい。だから親や大人が未熟な子どもの意志を推察し代行することは、普通に行われる。しかし大人になっても、親や教師、官僚などが本人の代わりに意思決定する必要があると考えることをパターナリズムという。現在、大学教育の現場でこのパターナリズムが強まっているという。
 ひと昔前、大学生は大人であると考えられていた。教員は授業を成立させなければならないので、教室での態度や研究を指導することはあったが、学生が大きな問題を起こさない限り、授業をサボろうが、留年しようが、本人の自己責任であるとされてきた。しかし最近は教員が学生と頻繁に面談することが義務化されているケースも多く、個人的な悩みや生活といったプライベートな事柄まで指導することが奨励されている。学生の管理が優先されているのだという。
「高度専門職業人の体系的な養成」、文科省は大学教育の究極的な目標をこのように位置づけている。そのために学生を過度にフォーマット化しようとし、企業もまたそうした人材を求めている。
 学生が不快感を持たないようにフォーマット化する技術を高めれば(まさにマインドコントロールであるが)、自分が部品や材料として扱われても違和感を持たなくなる。また他人をモノと見なすことも不自然だと考えなくなってしまう。自分で何をしたいのか分からない若者が増加するのも納得できる。

無責任な多数派の倨傲(きょごう)

 ハンナ・アーレントは『革命について』(一九六三)で、「公的領域」における仮面(persona)をかぶった自己と、「私的領域」におけるありのままの自己の差をなくし、むきだしの本音のむき出しの本音に基づく〝政治〟の危険性を指摘している。自分たち(多数派)の感情に適合する意見だけを、普遍的な人間性に適った意見として是認し、感情的に反発する意見を、耳を傾けることなく、全否定するのが当たり前になり、全ての人が同じ価値観を持つ全体主義社会を求める風潮を生み出すからである。(本書234ページ)

 本書ではこの他にも多岐に渡る問題をとりあげている。そこに通奏低音のように流れているのは、近代社会における自由権を巡る問題であるといえよう。
 民主主義政治が成立して以来、自由権についてはさまざまに論じられてきたが、そのなかでもっとも有力なのは、ジョン・スチュアート・ミルが『自由論』のなかで展開した議論である。ミルは民主社会における活動領域を、多数決原理に従うべき公的領域と私的領域の2つに分けた。そのうえで私的領域に関しては、各人の自由意志に任せるべきであるとした。思想・信教の自由もここから生まれた。
 ミルがこうした学説を唱えた背景には、私的領域の自由を認めないと、民主主義社会の多様な発展は阻害され、多数者の専制を生みだしてしまうからだ。周囲に付和雷同することの安心感と無責任さ、少数派に対する驕りは、問答無用で自分の考え方を他者に押し付ける態度を生み出す。
 最も民主的といわれたワイマール共和国の崩壊と、その後に訪れたナチスの台頭を目の当たりにした哲学者ハンナ・アーレントは、こうした風潮が二十世紀に全体主義の台頭を生み出したと指摘する。
 本書で紹介されている議論をていねいに読んでいくと、現在の日本のさまざまな問題の背後に全体主義が台頭しかねない風潮が蔓延していることが良く理解できる。
 ネットリンチが当たり前の社会は、気づかないうちに、善意によって、全体主義を生みだす危険性がある。そうした未来を招き寄せないために、著者は警鐘を鳴らしている。

『ネットリンチが当たり前の社会はどうなるのか?』(仲正昌樹著/KKベストセラーズ/2024年9月21日刊)

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