本の楽園 第193回 生きのびるための事務

作家
村上政彦

 坂口恭平という人物を意識したのは、2011年の福島原発事故があって、何人かの文学者が集まった席だった。当時、彼が出版した『独立国家のつくり方』という新書を話題にした編集者がいて、あ、それは僕も知ってる、とおもった。ただ、読んではいなかった。
 後日、読んでみたら、著者の問題の設定は、新しい社会をどのように構築するか、というより、僕らがどのように生き方を変えてゆくか、に重心がある、と感じた。社会を変える思想や試みは珍しくないけれど、そのためには、まず、個人の生き方を変えねばならないという。
 当然のことを、社会を変えるための実践として説いているところに関心を持った。同じことを考えていたからだ。人間が変わらなければ、社会は変わらない。そのためには、どうすればいいのか?
 坂口は、あなた自身が変わることですよ、と呼びかけているようにおもえた。僕も同じだった。まず、僕が変わらなければ、社会は変わらない、と考えていた。かなり齢はちがうけれど、坂口は仲間だとおもった。
 それから、それとなく、彼の動向を観察するようになっていた。『生きのびるための事務』と出会ったのも、noteで彼の名を見つけたのが、きっかけだ。無料で公開されていたので、結構な分量をプリントアウトして読んだ。
 実は、タイトルに惹かれた。「事務」――これは、僕がいちばん苦手な作業だった。働くのも事務仕事だけは絶対に嫌だとおもっていたし、実際そういう仕事に就いたことはなかった。自慢ではないけれど、僕は事務処理能力が低い。極端に低い。
 あるとき、所属していたグループで原稿を清書する作業を振られた。見事に何度もまちがえて、一緒に作業していた人びとに大いに迷惑をかけた。僕がまちがえたくだりで、文章のレイアウトが変わって、そのあとまで書き直さねばならない。僕は、この役を下ろしてもらった。
 物を考えたり、書いたりするのは、どちらかといえば得意だ。けれど、右にある物を左に移し替えるような、単純な作業は、苦手だ。苦痛でしかない。そればかりか、さっきもいったように処理能力が低い。タイトルに「事務」が入っていたので退屈な本かとおもった。
 しかし、「生きのびるための」とある。これは、ここしばらくの僕のテーマだ。そして、時代のテーマでもある。どのように生きのびるか――いまは、誰もがそれを考えなければならない時代だ。
 読んでみたら、坂口が問題にしている「事務」は、生きのびるための方法であることがわかった。ここからは、noteの連載ではなく、最近になって出版された漫画『生きのびるための事務』に基づいて書く。
 大学を出たばかり(多分)の、坂口恭平のもとに、ジムと名乗る若者が現われる。坂口のイマジナリーフレンドともいうべき存在で、彼が生きのびるための知恵を出してくれる。この知恵が事務だ。
 冒頭で、お金の管理が取り上げられる。そのころ坂口は、手元にあるお金をとくになんの方針もなく使っていた。あるだけ使って、なくなれば稼ぐ。ジムは、それを可視化するように勧める。坂口は一枚の紙に、一カ月の出金を書き出す。
 ジムはそれをひとつずつ吟味して、不用なお金を減らしてゆく。そして、最低限の必要額を計算して、それを稼ぐためのアルバイトをするように指示する。ただし、坂口の仕事は芸術(文学、絵画、音楽)なので、生活費を稼ぐのは、仕事を妨げない程度に入れること。
 僕は大学で小説の書き方を教えているけれど、学生にはパラレルワークを勧めている。小説を書くだけでは生活できない。だから、稼ぎ仕事をしなければならないが、こちらに重心が移ると、小説が書けなくなるから、稼ぎ仕事は最低限の生活費を稼ぐための手段と考える。
 でも、嫌な仕事は長続きしないし、苦痛でしかないから、自分の能力を活かすことができて、好きだとおもえる(少なくとも嫌いではない)仕事を選ぶこと。こうして、生活の基盤をつくって、小説を書いてゆく。ジムが坂口に勧めているのも、同じことだ。
 次にスケジュールの管理。ジムは、これも可視化するように勧める。坂口は円グラフに現在の一日のスケジュールを書く。それは、いまの現実だ。そのスケジュールのなかへ、原稿を書く時間、絵を描く時間、音楽を作る時間を入れてゆく。そして、円グラフを10年後の1日のスケジュールで埋める。
 これは10年後の夢ではなく、現実とする。ここからがほんとうの事務の出番だ。文章を評価して原稿を買ってくれる編集者を見つける。絵も同じように評価してくれる人物を見つける。坂口は苦心しながらも、ジムの助言を受けながら、これを実現してゆく。
 そんなにうまくいくのか? 本作を読んでいると、「最後はきっとうまくいく」という言葉が何度か出てくる。不思議と、うまくいく気がしてくる。
 好きなことをやるために、事務で未来の現実を描いて、行動する――生きのびるための事務とは、そういうことなのだろう。
 漫画『生きのびるための事務』は売れているらしい(僕が買ったぐらいだから)。世の中には、生きのびたい人々が、たくさんいるようだ。彼らはそのやり方を探っている。

オススメの本:
『生きのびるための事務』(坂口恭平著/道草晴子イラスト/マガジンハウス)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。