『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第60回 正修止観章⑳

[3]「2. 広く解す」⑱

(9)十乗観法を明かす⑦

 ③不思議境とは何か(5)

(3)十如是——総じて釈す③

 第七に「如是縁」については、「如是縁とは、縁は縁由(えんゆ)に名づく。業を助くるは、皆な是れ縁の義なり。無明・愛等は、能く業を潤す。即ち心を縁と為すなり」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、570頁)と説明している。縁は「縁由」、つまり物事の由来、理由という意味である。業=因を助けることは縁の意味である。無明、渇愛などは、業を潤す(草花に水を与えて果実を実らせるように、業に影響を与えて苦果を生み出すこと)ことができるので、心を縁とするといわれる。
 第八に「如是果」については、「如是果とは、剋獲(こくぎゃく)を果と為す。習因は前に習続し、習果は後に剋獲す。故に如是果と言うなり」(『摩訶止観』(Ⅱ)、570頁)と説明している。獲得することを果とするといわれる。習因は前において重なり続き、習果は後において獲得されるので、如是果というのであるといわれる。習因・習果については、 因果関係において、因が善ならば果も善、因が悪ならば果も悪、因が無記ならば果も無記である場合、因を習因(新訳では同類因)、果を習果(新訳では等流果)という。
 第九に「如是報」については、「如是報とは、因に酬(むく)ゆるを報と曰う。習因・習果は、通じて名づけて因と為す。後世(ごせ)の報を牽(ヒ)く。此の報は、因に酬ゆるなり」(『摩訶止観』(Ⅱ)、570頁)と説明している。因に酬いることを報という。習因、習果を共通して因と名づけ、この因によって来世の報いを生ずる。この報いは、因に報いたものであるとされる。
 第十に「如是本末究竟等」については、

 如是本末究竟等とは、相を本と為し、報を末と為す。本末は悉ごとく縁従り生ず。縁より生ずるが故に空にして、本末は皆な空なり。此れは空に就いて等と為すなり。又た、相は但だ字のみ有り、報も亦た但だ字のみ有り。悉ごとく仮りに施設(せせつ)す。此れは仮名に就いて等と為す。又た、本末は互相(たが)いに表幟(ひょうし)す。初めの相を覧(み)て後の報を表わし、後の報を覩(み)て本の相を知る。施を見て富を知り、富を見て施を知るが如し。初後は相い在り。此れは仮に就いて等を論ずるなり。又た、相、無相、無相にして而も相、非相非無相、報、無報、無報にして而も報、非報非無報、一一皆な如実の際に入る。此れは中に就いて等を論ずるなり。(『摩訶止観』(Ⅱ)、570頁)

と述べている。「本」は十如是の最初の「如是相」を指し、「末」は第九の「如是報」を指す。この本末が等しいということについて、空、仮、中の三種の意義がある。
 この本末はすべて縁(外的条件)から生じ、縁によって生じるものは空であり、したがって本末はみな空であるとされる。これは空という視点で本末が等しいことである。
 次に、相はただ文字があるだけで、報もただ文字があるだけである。すべて仮りに文字を設定するのである。これは「仮名」という視点で本末が等しいことである。仮名とは、仮りに名づけたものという意味である。概念(名)は対応する実体のない仮りのものであるとされる。典拠としては、『中論』観四諦品に、「衆因縁生法は、我れは即ち是れ無と説き、亦た為是(こ)れ仮名にして、亦た是れ中道の義なり」(大正30、 33中11~13)と出るものである。対応梵語はプラジュニャプティ(prajñapti)である。さらにまた、初めの相を見て後の報を表わし、後の報を見て本の相を知ることには、初め(本のこと)と後(末のこと)とがたがいに存在することになり、仮という視点で本末が等しいことを論じていることであるとされる。
 最後に、相でありながら無相、無相でありながら相、相でもなく無相でもないあり方、ないし報でありながら無報、無報でありながら報、報でもなく無報でもないあり方、それぞれがみな真実ありのままの究極に入るとされる。これは中道という視点で、本末が等しいことを論じていることであるとされる。

(4)十如是——類に随いて釈す①

 ここでは、十如是を、三悪(地獄・餓鬼・畜生)、三善(阿修羅・人・天)、二乗(声聞・縁覚)、菩薩・仏の四つのグループに分ける。
 第一に三悪の十如是については、

 三途は苦を表わすを以て相と為し、悪と定まれる聚(あつまり)を性と為し、摧折(さいしゃく)の色心を体と為し、刀に登り鑊(かま)に入るを力と為し、十不善を起こすを作と為し、有漏の悪業を因と為し、愛・取等を縁と為し、悪の習果を果と為し、三悪趣を報と為し、本末が皆な癡なるを等と為す。(『摩訶止観』(Ⅱ)、570-571頁)

と述べている。三途(三悪道)は苦を表わしているのを相とし、悪と定まっているものの集まりを性とし、くだけ折れる色心を体とし、刀に登り罪人を茹でる大きな釜に入るのを力とし、十悪(殺生・偸盗・邪婬・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪見)を生じるのを作とし、有漏の悪業を因とし、渇愛・執著などを縁とし、悪の習果を果とし、三悪趣(三途)を報とし、本末がみな愚かである点を等とするといわれる。
 第二の三善の十如是については、

 三善は楽を表わすを相と為し、善に定まれる聚を性と為し、升出の色心を体と為し、楽受を力と為し、五戒・十善を起こすを作と為し、白業を因と為し、善の愛・取を縁と為し、善の習果を果と為し、人天の有を報と為し、応に仮名に就いて初後の相在るを等と為すべきなり。(『摩訶止観』(Ⅱ)、571頁)

と述べている。三善は、楽を表わしているのを相とし、善と定まっているものの集まりを性とし、上方に昇っていく色心を体とし、楽を感受することを力とし、五戒(不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不飲酒)・十善(十悪の反対)を生ずることを作とし、白業(善業)を因とし、善の渇愛・執著を縁とし、善の習果を果とし、人天の有を報とし、仮名という視点で初後ともに存在することを等とするべきであるといわれる。
 第三の二乗の十如是については、

 二乗は涅槃を表わすを相と為し、解脱を性と為し、五分を体と為し、無繋(むけ)を力と為し、道品を作と為し、無漏の慧行を因と為し、行行を縁と為し、四果を果と為し、既に後有の田の中に生ぜざるが故に、報無し、云云。(『摩訶止観』(Ⅱ)、572頁)

と述べている。二乗は涅槃を表わしているのを相とし、解脱を性とし、戒・定・慧・解脱・解脱知見の五分法身を体とし、束縛の無いことを力とし、三十七道品(四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道)を作とし、無漏の慧行(正行)を因とし、行行(助行)を縁とし、声聞の四果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)を果とする。来世の生存が田に生じないから報はないとされる。
 ここでは明言されていないが、報がないとは界内(三界内部)の分段の生死という報がないことを意味しているのであり、界外の不思議変易の生死という報はあるはずである。(この項、つづく)

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。