「女の地獄」を見た日本人慰安婦
社会福祉法人「べテスダ奉仕女母の家」が運営する女性自立支援長期入所施設「かにた婦人の村」は、千葉県館山市の元海軍施設のあった高台にひっそりと佇む。
施設長によるとDV被害者など現在の入所者はおよそ40人。関東近辺の出身者が多く、年齢も19歳から92歳まで幅がある。「かにた」は近くに蟹田川が流れていることにちなみ付けられた。JR館山駅からタクシーで10数分。高台からは館山湾を下方に見渡せ、天気のよい日は富士山の眺望が彼方に映る。
施設の開所は1965年4月。元海軍省の国有地を払い下げられた3万坪あまりの広大な土地の一角に建てられた中心施設に、設立当初から71歳で亡くなるまでの28年間を過ごした一人の女性が「かにた婦人の村」を有名にした。その人の名は城田すず子(仮名)。
旧日本軍兵士を相手に過酷な性労働を果たした旧日本軍慰安婦の体験者として、日本人として最初に名乗りをあげた女性として知られる。その人生をひもとけば波瀾万丈の半生が浮かび上がる。
1921年6月東京の下町・深川の裕福なパン屋の家庭に、5人兄弟の長女として生まれた。14歳のとき母親が急死した後、家が傾き、神楽坂の芸者屋に子守に出された。さらに父親の借金のため横浜の遊郭に売られ、自ら手を挙げて17歳で台湾の慰安所で働く。戦時下は海軍専属の特要隊(慰安婦)として、24歳まで南方諸島を転戦した。
ボロ雑巾のように扱われ、多くの同僚たちが爆弾に当たって息絶えた。
むごたらしい死にざまを、生きて戦後を迎えた城田さんは次のように綴っている。
終戦後40年にもなるというのに、日本のどこからも、ただの一言も声があがらない。兵隊さんや民間の人のことは各地で祭られるけど、中国、東南アジア、南洋諸島、アリューシャン列島で、性の提供をさせられた娘たちは、さんざん弄ばれて足手まといになったら、ほっぽり出され、荒野をさまよい凍てつく山野で食もなく、野犬か狼の餌になり、骨はさらされ土になった
当時の日々を次のように回想する。
兵隊用は1回50銭か1円の切符で、行列をつくり、私たちは洗うひまもなく相手をさせられ、死ぬ苦しみ。なんど兵隊の首をしめようと思ったか。半狂乱でした。……死ねばジャングルの穴にすてられ、親元に知らせるすべもない有様です。それを私は見たのです。この目で、女の地獄を……
戦後もやさぐれた生活が続いたが、あるときキリスト教を母体とした支援団体に接し、人生が変わる。43歳のとき、開設されたばかりの婦人保護長期入所施設「かにた婦人の村」に入所した。
入所して20年ほど過ぎたころ、初代施設長(深津文雄)に慰安婦女性を慰霊するための碑の建設を求めて切々と綴ったのが、先ほどの手紙の一節である。本人にとって、生き残った自分がそれをしなければ、無念の中で生を終えたかつての仲間たちが浮かばれないとの切迫した思いがあった。
鎮魂の碑は1985年、山の中腹にある施設から10数分ほど登った山頂の一角に木彫りで設置された(翌年、石碑に建て替えられる)。
40回目となった鎮魂祭
かにた婦人の村の「鎮魂の集まり」は1985年8月15日を〝起点〟に、毎年同じ日の夕刻に石碑の前で行われてきた。ことしも入所者はじめ50人近い人たちが参集した。
碑には「噫(ああ)従軍慰安婦」と達筆の文字で彫り込まれている。午後4時。白髪の女性が吹く縦笛の音色に合わせて深津文雄氏の作による一小節を3回繰り返して歌った。
〽きよらの乙女 連れ去られ
嘆きの涙 あともなく
3代目の施設長である五十嵐逸美さんが自ら書いた鎮魂祭の説明文を読み始める。風が強いのか辺りの木々が流れるようになびいていた。
意味のない戦争に駆り出されて青春のすべてを奪われ、穢されて、捨てられたあの従軍慰安婦と呼ばれた若い女性たちのことを忘れてはなりません…
五十嵐さんは入所者の中に慰安婦を体験した城田さんの存在があったこと。本人の願いで慰霊碑が建てられ毎年鎮魂祭が開かれるようになったこと。すず子さんの半生を書いた自伝でありドキュメンタリーでもある本人の著作『マリヤの賛歌』(かにた出版部、1971年)がこのほど大手出版社の文庫として再出版される見込みとなったこと、などを語った。五十嵐さんは続けた。
旧日本軍の無謀な計画性のない戦争の遂行により、あのとき特攻に行かされた若い学徒兵士たちが行かないことを選べなかったのと同様に、この女性たちも慰安婦になることから逃れられない状況の中で、過酷な性労働を強いられていました。そのような地獄を見、体験し、生き延びた城田さんは、戦後の平和な生活を享受しつつ、悪夢に苛まれ、この碑の建立を思い立ち、深津牧師に願い出ました。幸いにして戦後の多くの日本人はこの79年間、直接戦争に巻き込まれることもなく、自らの希望や夢を追いかけることができる自由な人生を送ることができてきました。が、ここ10年、この国はいつの間にか戦争ができる国になろうとしています
私たちが施設の中で仲間であった故人の遺志を継いで続けてきたこの鎮魂祭の小さな集まりですが、今後も大切な平和活動の一つとして継続し……共に歩んでいきたいと願います
とつとつとした語り口。その後、97歳の、生前の城田さんとも長く接した女性シスターが、今年の鎮魂祭が40回目の開催となることを告げた。
木製の縦笛による「アリランの歌」の単独演奏が始まると、一人ずつ並びながら、おのおのの流儀で鎮魂碑の前で祈りを捧げた。その間、女性たちはアリアンの歌を皆で口ずさむ。
城田さんは日本人慰安婦だったが、慰安婦の多くが朝鮮人であった史実にちなみ、毎年「アリアンの歌」を歌っているという。
この日は鎮魂祭が始まる前の時間を利用し、入所者らは俳優の金子順子さんが城田さんの人生を演じる一人劇「マリアの賛歌―石の叫び」を観賞した。精神科医で施設のメンタルヘルスにも協力する劇作家のくるみざわしんさんが書いた脚本を演じるもので、2022年12月大阪で初公演。ことしも神奈川などで公演が企画され、3000円の席が300人(満席)で埋まる盛況ぶりだった。この日の鎮魂祭には演じ終わったばかりの金子さんの姿もあった。
城田さんはこの鎮魂祭に8回出席した後、1993年3月、帰らぬ人となった。その思いは、後半生、人生の4割を過ごした施設の後継者らによっていまも確実に受け継がれている。
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