憎悪と分断を煽り、社会的分断を生み出す
現在、欧米を中心に、社会的公正やジェンダーや人種間の平等、LGBTQ+の権利保全などを求める「アイデンティティポリティクス」と呼ばれる運動が、学生を中心とした青年層に支持を拡大している。本書は具体的な事例を豊富に挙げ、この運動の理論的根拠を丁寧に検討し、背後にあるイデオロギー的基盤や問題点を明らかにする。
これらの問題すべてに共通しているのは、いずれもまっとうな人権運動として始まったことだ。だからこそ、ここまで成功を収めることができた。だがある時点で、そのいずれもがガードレールを突き破ってしまった。平等であるだけでは満足できず、「さらなる向上」といった、とても擁護できない立場に居座ろうとするようになった。(本書23ページ)
著者が「大衆の狂気」と呼ぶこの運動を強く批判する理由は、本来差別を撤廃するために語られてきた言葉が、今や逆差別というべき現象を蔓延させ、社会に憎悪と分断の種を蒔き散らす手段として用いられているからだ。
「同性愛のカップルは異性愛のカップルよりも子育てに向いている」、「黒人は白人よりも優れている」、「女性は男性よりもすぐれている」等々、こうした言説がマスメディアやSNSを通じて日々拡散され、あたかもそれが正論であるかのようにまかり通るようになってしまった。疑義を差し挟もうものなら、テレビの討論番組でもネット空間でも「偏見持ち!」と罵倒される始末である。議論の余地のない問題に疑問を持つことは今やタブーとされ、対話は封殺される。
権力というレンズを通して全てを判断する
現在では、この昔の図の別バージョンが、社会的公正というイデオロギーの中心を占めるようになっている。この新たな構造図のうち、それがマルクス主義を土台にしていることを示唆するものは一つしかない。いまだ圧政と搾取を象徴するピラミッドの頂点に、資本主義が鎮座している点だけである。この階層ピラミッドのほかの上層には、以前とは異なる人々が暮らしている。そこには、白人であり男性であり異性愛者である人々がいる。(本書102ページ)
アイデンティティポリティクスに参加している人たちはさまざまなグループから構成され、決して一枚岩ではない。その上、彼らの論拠は極めて曖昧であるばかりか、矛盾に満ちている。それを端的に表しているのが、著者が「ハードウェア=先天的」、「ソフトウェア=後天的」と名付ける問題だ
私たちがハードウェアとして真っ先に考えるのは人種や性別であろう。しかしこの運動参加する人々はそうではない。人種や性別はソフトウェアであると考える。
具体的な例を挙げると、「〇〇という候補を応援する人間は、もはや黒人ではなく白人である」と著名な芸能人が糾弾されたという。ここで特徴的なのは、黒人は白人になることがあるが、白人は黒人になることはできないとされている点だ。
さらには、かつて著作に「男性として生まれた人を女性として分類できない」と書いていたために、「彼女はもうフェミニストではない。トランスジェンダー嫌いの白人女性だ」と、20世紀に女性の権利向上に貢献を果たしたフェミニストが、ありとあらゆる罵詈讒謗を投げつけられた。
初歩的な生物学的を知っているなら、荒唐無稽としかいいようがないこうした主張を、人びとはなぜ受け入れてしまうのか。
その背景にはイデオロギー的基盤がある。それは近年に到るまで研究者の間でも顧みられることのなく、マルクス主義でも長らく傍流とされてきた考え方だ。この思想の特徴は、かつて階級闘争史観で資本家が担っていた役割を、白人で男性の異性愛者に置き換えた点にある。ここから、人種や性別などの差異に執拗にこだわり、全ての物事を権力と政治に還元する転倒した考えが生まれた。
今こそキングの思想に立ち返るべき
それに失敗すれば、行き着く先はすでにはっきりしている。ますます社会が細分化され、怒りや力に満ちていくばかりか、あらゆる権利の向上(評価すべき向上も含め)に対する反動の可能性がますます高まっていく。人種差別に人種差別で対抗し、性に基づく中傷に、性に基づく中傷で対抗する未来が待っている。屈辱感がある段階に達すれば、多数派を構成するグループが、これまで自分たちのためにもなってきた歴史を逆転させないともかぎらない。(本書27ページ)
この歪んだイデオロギーは欧米の大学の社会学研究室で徐々に支持者を増やし、リーマンショックをきっかけにインターネットなどを通じて爆発的に普及した。やがて現代人の精神的空白を埋める包括的な人生観、新たなる宗教の位置を獲得するに至った。多くの企業――特に大手IT企業は、社会的中立を謳いながらも、これをいち早く取り入れ、検索結果を表示する際のフィルターに反映させ、このイデオロギーを流布する片棒を担いだ。政府や企業も雇用法などを通じて、この流れを後押しいている。本書で紹介されている無意識の偏見を自覚させるためのテスト「アンコンシャス・バイアス研修」などはその典型であろう。
自身性的少数者(ゲイ)である著者は、こうした状況が続くならば、極端な考え方を問答無用で押し付けられた社会的多数派の反動を招きかねず、歴史の歯車を逆転させることになりかねないと警鐘をならす。今こそ人間の平等と人種間の融和を説き続けた、キング牧師の理想に立ち返るべきだと著者は訴える。
現代の日本もまた、本書で描かれている欧米の状況と無縁ではない。マスメディアやSNSは、社会的分断を生み出しかねない憎悪に満ちた言葉に溢れている。政治家の討論にしても政策やヴィジョンの優劣を競うというより、美辞麗句に飾り立てられたスローガンをまくしたてるか、対立する候補の経歴や人格を誹謗中傷するものが大半を占める。また宗教を信ずる人や他の民族を馬鹿にするような事を平然と述べるコメンテーターも多い。受け手の感情を煽り立てることが目的とされているだけに、極めて悪質である。
こうした状況下では言葉の上っ面ではなくその内実を鋭く問い、扇情的な言説を相対化する力が必要だ。さらには分断と憎悪を克服する確たる哲学が求められている。調和と寛容の哲学こそ、洋の東西を問わず、現代社会が希求して止まないものであろう。
『大衆の狂気』(ダグラス・マレー著、山田美明訳/徳間書店/2022年3月31日刊)
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