本の楽園 第189回 言葉から言葉つむがず

作家
村上政彦

 びっくりした。俵万智が還暦を過ぎたという。僕からしたら、昨日まで大学生だった親戚の姪が、いきなりけっこう大人な姿で現れたようなものだ。俵万智は、いつまでも『サラダ記念日』の歌人である。

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 しゃきしゃきの生野菜のような言葉の味わい。作者の印象もそうだった。その俵万智が還暦を過ぎた? 61歳? いやー、歳月の流れは速い、といかにも凡庸な物書きらしからぬことをおもった。
『アボカドの種』は、この4年ほどの作品を収めた歌集だ。読んでみると、確かに俵万智は大学生ではない。ひとり息子を大学へやり、けっこう重いらしい病気にもなり、韓流ドラマにはまっている。これは、もはや立派な大人の女性である。しかも、そう若くはない。
『サラダ記念日』は、ひたすら眩しかった。きらきらしていた。ヒカリモノだった。けれど、新作はさまざまな経験を経て、磨きこまれて鈍い艶を出している木斛のようだ。

手間ひまをかけて生きれば甘くなることもあるよと笑う干し柿

 これは若い娘には詠めない。

渋いことあったら私も試そうか皮をむいたり茹でて干したり

 作者も渋いことを経験してきたのだ。好きな君にサラダの味を褒められて記念日にする若さではなく、けっこう生きてきて、まだ続くこの先を生きるための知恵をたくわえようとする成熟が感じられる。また、世情についての目配りもある。

ウクライナ今日は曇というように戦況を聞く霜月の朝

 ロシアのウクライナ侵攻は、すでに有事というよりも日常になりつつある。それでいいの……という静かな抵抗。
 NHKのドキュメンタリー番組に密着された経験を詠み、同じくNHKの朝ドラにはまって、登場人物に成り代わって詠み、コロナ禍の世情を詠み、ホストと歌会を開く。そして、恋もする。

約束はたぶん明日には色あせる「次は京都で会おう」だなんて

 このとき還暦を過ぎた女性も華やいでいる。

誰からも頼まれなくても書くという悦び「愛の不時着ノート」

 これは韓流ドラマにはまったときの歌だ。「愛の不時着」は、結局まだ観ていないが、時間ができたら観るつもりでいる。僕も一時、「チャングム」「イサン」なんて、時代劇にはまったことがある。韓流ドラマは大人のエンターテインメントだ。

九十の父と八十六の母しーんと暮らす晩翠通り

 そうだね。還暦も過ぎれば、親の世話もしなければならない。これも大人になったあかしのひとつ。
 本作のタイトルにもなった歌。

言葉から言葉つむがずテーブルにアボカドの種芽吹くのを待つ

 作者はインタビューで語っている。

最初に思い浮かんだのは「言葉から言葉つむがず」だけ。抽象的なので(ぴったり合う)具体物をずっと探していた

一首、一首、自分の目で世界を見るところから、歌を生む。言葉から言葉をつむぐだけなら、たとえばAIにだってできるだろう。心から言葉をつむぐとき、歌は命を持つのだ

 そして結局、答えを見つけたのは数カ月後のこと。
「作品だけでなく、できるまでの時間を含めて歌なんだ」とおもった。
 成熟した大人な俵万智もいい、とおもいながら読んでいると、彼女のなかにいる、ひとりの少女と眼があったりもする。歌人て、いや、人間ておもしろい。

お勧めの本:
『アボカドの種』(俵万智著/角川書店)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。